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中京王国崩れ地盤変化 守りの東邦などしのぎ

 ぐんぐん延びる打球が左翼席に消えた。一瞬静まり、ドッと沸くスタンド。このシーンを、東邦の阪口慶三監督(四四)は「終生忘れない」。四十四年七月の愛知大会準決勝(熱田)。中京1―0リードの九回裏、東邦に劇的な逆転2点本塁打が飛び出したのだ。そして、この本塁打はそれまでの愛知における中京―東邦の位置関係をくつがえす一打ともなった。

 愛知の高校野球といえば、伝統的に中京である。今春まで春二十六度、夏二十二度の甲子園出場を誇り、優勝は春四度、夏六度。戦前は夏に3連覇、四十一年は春夏連覇の偉業も持つ全国屈指の強豪だ。その「中京王国」にかげりが出始めたのが四十四年から。東邦が四十四、四十五、四十六年と三年続けて選手権大会の代表となり、以後愛知は愛工大名電や享栄も絡んだ群雄割拠時代に入る。

 「打倒中京」はそれまで各校の共通した悲願だった。なかでも、最も執念を燃やしたのが東邦である。東邦は「春の東邦」ともいわれ、選抜大会では三度も優勝している有力校だが、夏は中京に後れを取っていた。阪口は愛知大を卒業すると弱冠二十二歳で母校の監督に就任。徹底したスパルタ教育で選手を鍛えた。

 「中京が寝ている間にバットを振れ」が当時の口ぐせ。教室に新聞紙を敷いて泊まり込み、体育館で深夜、早朝と素振りを続けた。そのころ、中京は名監督と評判になった杉浦藤文(四七)=中京大理事長秘書室長=が監督。五年前に辞めたが「オレの監督生命を縮めたのはあんたのせい」と阪口はよくいわれた。

 ひとたび中京が崩れると、県内に地盤変化が起こる。「その昔、有力選手はみんな中京に集まっていた。しかし、各校に分散するようになった」と杉浦はいう。その結果、全体の力は上がったが、トップレベルは相対的に低下。第四十八回大会(四十一年)の中京商(現中京)以来、春、夏を含めて愛知勢から全国優勝が出ないのは、力の分散のせいかもしれない。

 中京は第六十六回(五十九年)にどん底に落ち込む。愛知大会の初戦で敗退したのだ。実に三十五年ぶりの屈辱。前日1―1のまま延長十三回日没引き分け、翌日1―2。「初戦で二度も負けた」とOBは嘆いた。しかし、第六十九回大会(六十二年)は三年ぶりに甲子園へ出場しベスト8。今春は六年ぶりに選抜大会出場と名門復活の気配である。

 中京が機動力野球、ち密な野球を昔から持ち味にしているのに対し、東邦は主として「守りの野球」だ。阪口は、最も肩の強い選手を捕手にする。中京の「足」を意識してのこと。山倉和博(三二)=巨人=ら、東邦からしばしば好捕手が出るのはこのためである。十年前に柴垣旭延(四六)が監督になってから進境めざましい享栄も、投手中心の守りの野球。

 逆に「私学4強」のひとつ愛工大名電は、力による真っ向勝負を挑む。大型選手を並べ、攻撃力で粉砕。「攻撃は最大の防御」とする中村豪監督(四五)の性格による。「負けを検討してみると、守りの破たんが多い」と中村は苦笑するが、この攻撃野球で最近の二十年間に春夏五度甲子園の土を踏んだ。

 第五十回大会(四十三年)以後の甲子園出場をみてみると、中京七度、東邦六度、享栄三度、愛工大名電二度、国府と大府が各一度。名古屋の私学4強がしのぎを削り合い、県立校や三河地区の学校が割り込むスキがない。「4強を中心に、今後の愛知はますます混戦になる」という享栄・柴垣の予想は、県高校野球関係者の一致した見方。東邦の阪口は、今春の選抜大会に準優勝したとはいえ「せめて2強にならないと甲子園での栄冠は難しい」とみている。(敬称略)

(1988年5月22日掲載、年号は昭和)

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プロ球界へ人材供給県 工藤・近藤・槙原・山倉ら

 名古屋電気(現愛工大名電)から西武に進んだ工藤公康(二五)の右目の上に、小さな傷がある。顔面に死球を受けた名残だが、「この時の試合が高校時代で最も苦しかった」と工藤はいう。

 この時の試合とは、五十六年七月の愛知大会5回戦、名古屋電気―中京戦だ。三回、工藤は右目に死球を受けた。中断23分。球場付看護婦は「続投なら目の保証はできません」。中村豪監督(四五)は迷った。控えの投手がいないのだ。健康か試合か。結局、続投。ガーゼで出血をぬぐいながらの痛々しい投球だったが、かえって力みが抜けたのか、試合は3―0で勝った。

 人間の運命とは、不思議なものだ。この時、降板していたら、今日の工藤があったのかどうか。紙一重である。

 顔面死球にもめげず第六十三回大会(五十六年)に進んだ工藤は初戦の長崎西戦でノーヒット・ノーラン、16奪三振の快投。続く北陽(大阪)との3回戦は延長十二回ながら21奪三振。準々決勝の志度商(香川)からも12奪三振の完封。この3試合で、打たれた安打はたったの4本、49奪三振。「名古屋電気に工藤あり」を全国にアピールし、プロ入りのきっかけになった。昨年、一昨年と日本シリーズMVP。今やプロ球界きってのサウスポーである。

 工藤をはじめ、愛知からプロ入りした選手は実に多い。今シーズンは十二球団すべてに顔をのぞかせ計四十一人。「野球王国」の面目躍如、ちょっとした「人材供給県」といえる。巨人の鴻野淳基(二六)が工藤の二年先輩、大洋の高橋雅裕(二三)が一年後輩。

 MVPといえば、昨年セ・リーグの最優秀選手に輝いた巨人の山倉和博(三二)も東邦出身だ。二年生の夏までは遊撃手。秋から捕手になった。翌四十八年の春、夏連続して四番打者で甲子園に、南海に二位指名されたが早大に進む。「まじめでおとなしい性格だった。いわれたら、それしかやらない」と東邦の阪口慶三監督(四四)は振り返るが、不器用な性格は今も同じ?

 東邦にはもうひとり、世間の注目を集めた選手がいる。「バンビ」こと坂本佳一(二六)=日本鋼管川崎=だ。第五十九回大会(五十二年)では十五歳の一年生投手ながら、チームを準優勝に導いた。当時、学制改革後に、決勝のマウンドを踏んだエースのなかでは最年少。

 しかし、若さだけではない。スリムな体、童顔が爆発的な人気を呼ぶ。その年の秋の県大会では、押し寄せたファンのため球場を出れず、パトカーに乗って脱出の騒ぎもあった。法大から社会人野球へと進んだが、ひじの故障で下積みが続き、二年前に野球をやめた。今春の選抜大会で東邦が五十二年以来十一年ぶりに決勝進出。坂本も応援にかけつけたが「あの時以来の甲子園なので道を忘れた」と頭をかいた。

 先の工藤の時代に「愛知の三羽ガラス」といわれたひとりが大府の槙原寛己(二四)=巨人。「とにかく速かった。ズドンとくる感じ」と県高野連理事長の佐々木保(五九)は回想する。この速球で五十六年の選抜大会に出場。1回戦では報徳学園(兵庫)の金村義明(二四)=近鉄=に投げ勝った。「三振奪取王」の工藤が、同年夏の準決勝でその金村に投げ負けているのだから面白い。

 六十一年の春、夏と甲子園の土を踏んだ享栄の近藤真一(一九)=中日=は昨年、プロ入りデビュー戦でノーヒット・ノーランを演じた。甲子園経験こそないが愛知の杉浦享(三五)=ヤクルト=、犬山の平野謙(三二)=西武=、大同工(現大同)の伊藤文隆(三四)=阪神=らも、プロで活躍中の選手である。(敬称略)

(1988年5月23日掲載、年号は昭和)

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