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完全試合まであと1死

 第六十四回大会(五十七年)の第二日。第1試合、佐賀商―木造(青森)は終盤に入って、次第に緊張感が増してきた。ネット裏には、カメラマンの数がどっと増える。ベンチでスコアブックをつけた部長の田中公士(四四)=現監督=は、ひざの震えを止めることができなかった。

 スコアブックは安打を「赤字」で、四死球を「青字」で記入する。このときの木造の欄は「黒字」ばかり。しかも、三人ずつで攻撃が終わっている。選手権大会で一度も記録されていない「完全試合」が着々と進行していた。

 マウンドの新谷博(二三)=日本生命=は、六回が終わったとき捕手の田中孝尚(二三)=元阪急=と、うなずきあった。「続いているな」。主将の遊撃手小林満喜(二三)=佐賀県信用保証協会、三塁手為永聖二(二三)=NTT東京=らも大記録を意識しており、「いけるぞ」と新谷を励ました。

 ひやりとする場面もあったが、バックの好守備が新谷を援護する。そして九回二死。二十七人目の打者は代打で一年生の世永。ストライク、ボール、ボールのあとの4球目。新谷の手を離れたその1球は世永の右腕に当たった。この瞬間、大記録は消えた。

 94球目。新谷にとっては痛恨の1球だったろう。だが、マウンドで、くやしそうなそぶりはまったく見せず、一塁へ走る世永に帽子をとって深々と頭を下げた。かけ寄ったナインには白い歯をみせ、冷静に次打者を二ゴロに打ち取り、史上二十回目(十九人目)のノーヒット・ノーランを達成した。試合後のインタビューで新谷は「記録よりも、みんなで勝てたことがうれしい」と、さわやかな笑顔を見せた。

 監督は板谷英隆(五四)=杵島商教頭。「高校野球は優勝を競うだけではない。部員と監督が心身と技を磨き合う教育」をモットーに、有田工をふり出しに佐賀工、佐賀商で計三十一年間務めた。甲子園は佐賀工時代の第五十回大会(四十三年)に初出場、通算選手権五回、選抜二回で、県内で最多出場である。

 佐賀勢は長い間、西九州大会で長崎勢に痛めつけられ、第四十一回大会(三十四年)から第五十九回大会(五十二年)まで5勝11敗。板谷も泣かされた一人である。それを克服するため、広島商、松山商(愛媛)など中、四国の伝統校を積極的に訪ね、練習試合をしながら、ち密さ、厳しさを学んだ。それが実を結んで、佐賀勢として二十二年ぶり、二度目の3回戦進出を果たした。ベスト8を目前に、延長十四回、2―3で津久見(大分)に惜敗したが、板谷にとって一番手ごたえのあるチームだった。

 しかし、甲子園での佐賀勢の戦績は第四十二回大会(三十五年)、鹿島が宮崎昭二(四四)=スポーツ用品販売=と、亀飼良知(四五)=飲食店経営=のバッテリーでベスト4に食い込んだのが最高。以後は、この佐賀商が健闘したぐらいで振るわない。

 佐賀は温暖な気候に恵まれ、県民性は温厚だ。歴史的には葉隠精神が尊ばれる。しかし、外面的な美しさにとらわれず、質実剛健を常とせよ、というその精神は失われてきているといわれる。高校野球にも、それが当てはまるようだ。プロ野球に進んだ選手をみても、最近では多久工の加藤博一(三六)=大洋、佐賀東の辻発彦(二九)=西武=あたりしか目立たない。

 しかし、指導者たちは静かに闘志を燃やしている。唐津商の日高綱義(五一)は第五十二回大会(四十五年)以来三回出場、第六十六回大会(五十九年)で初勝利をあげた。杵島商の松本司(三八)、東松浦の宮島光年(四五)は第六十回大会(五十三年)に初出場の小城の監督と部長。いま、ともに夢の再現を目指している。このほか、佐賀学園で巨瀬博(三九)、鳥栖の平野国隆(四一)、唐津西の吉丸信(三三)らがいる。(1988年6月22日掲載、年号は昭和)

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