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作新学院初の春夏連覇 「江川狂騒曲」でも注目

 三十七年、作新学院は史上初の春、夏連続優勝で高校球界をわかせた。春のエースは八木沢荘六(四三)=西武。その八木沢が夏、赤痢に倒れると、加藤斌(中日=故人)がすい星のように現れ、快投を演じた。それから九年、作新学院は再び全国の注目の的になった。怪物投手、江川卓(三三)=野球解説者=の登場である。

 四十六年七月十八日、選手権の栃木大会2回戦、対足尾が江川の公式戦デビュー。四回から救援し、八回まで無走者、7奪三振。準々決勝の烏山戦ではなんと完全試合を演じた。入学して三カ月余りの一年坊主の“パーフェクト”だった。

 江川が小山中から入学してきた時、監督の山本理(五五)=作新学院教諭=は「この子で三年、甲子園へ行ける」と思った。だが、高校野球は一人のスーパー選手では勝てない。やがて、山本はそのことを思い知らされると同時に、マスコミの江川狂騒曲に巻き込まれ、苦い思いを味わうことになる。

 江川を擁しながら作新はあと一歩というところで勝てない。四十六年秋の関東大会では江川が頭に死球を受け、1回戦敗退。甲子園をつかんだのはようやく四十八年の選抜大会だった。江川は34イニングで60奪三振の大会記録をつくった。作新は準決勝で広島商の奇襲に敗れたが、この快投のために、山本が「チームワークをむちゃくちゃにされた」という取材攻撃が始まる。

 練習で江川が打席に入ると、カメラが放列を敷き、他の選手になると、見向きもしない。大勝しても見出しは「江川好投」、負けたら「貧打で見殺し」。主将だった菊地誠(三三)=宇都宮市在住、会社員=はチームをまとめるのに苦労した。「みんな面白くなくて、不平、不満だらけ。江川に張り合おうと、スタンドプレーに走り出す選手が出たりして、困った」

 最後の夏は空前の江川フィーバー。県営球場は午前三時ごろから切符を求めるファンが列をつくり、遠く愛知、宮城ナンバーの車まで現れた。江川はノーヒット・ノーラン3試合、44イニング無失点、被安打2の快投をみせ、作新は春、夏連続出場。だが、“江川大会”といわれた甲子園では各校の標的にされ、2回戦で銚子商に敗れる。決勝点は押し出しの四球だった。バックの打線は選抜大会後も狂ったままで、県大会のチーム打率は2割4厘、甲子園でも2試合で2点。

 栃木県高野連が製作した『六十年史』に江川は「ファン、マスコミに騒がれるので、仲間から外れないようにと、気を使った」と、思い出の一文を寄せている。菊地は、三年生の江川が率先して道具運びをしたり、グラウンドならしをするのを何度も見た。「本人もつらかったんですよ。あのころは、彼の存在をうらめしく思ったこともあったが、今は(あんな有名な投手と)一緒にやれてよかったと思ってますね」

 しかし、菊地のように懐かしい思い出とはいかない者もいる。江川の陰に隠れ、第二投手として過ごした大橋康延(三二)=元大洋、会社員=は昨年、江川が巨人のユニホームを脱いだ時、マスコミから求められるコメントを「野球のことは思い出したくない」と家人を通じてすべて断った。小山二中時代、江川が小山を受験するとうわさに聞いて、作新を受けたら江川がいた。「他校なら間違いなくエース」といわれた逸材の不運の始まりだ。大洋ではけがのため1試合に登板しただけで退団した。

 栃木の高校野球は時にこうして、全国の注目を集める。六十一年の選抜大会、宇都宮南の準優勝、今春同大会宇都宮学園のベスト4進出とレベルも低くない。しかし、県高野連理事長の増山志知(五八)は、「作新や浜野仁監督(故人)が宇都宮工を率いて甲子園で暴れた昭和二、三十年代に比べると、野性味がなくなった」という。(1988年6月2日掲載、年号は昭和)

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