ペリーと英語でどう交渉? 日本人通訳の秘策は

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刀祢館正明
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 1854年、ペリー艦隊の要求を受け入れて、日本は開国を決めました。前年の初来航時には文書の受け渡しだけでしたが、2回目は本格的な交渉を重ねます。その交渉の場に、長崎の「ネイティブ塾」で鍛えられたオランダ通詞・森山栄之助が登場します。その活躍は? 一方、当時の人々はペリーや黒船をどう見ていたのでしょう。一枚の絵から探ります。

 翌年の嘉永7(1854)年、ペリー艦隊が再びやってきた。横浜村で交渉開始。幕府は開国を決め、日米和親条約を結んだ。

 首席通訳には長崎のオランダ通詞・森山栄之助が就き、前年に務めた堀達之助は次席に回った。

 マクドナルドから学んだ森山の英語力が期待されたのだろう。とはいえ、本番の外交交渉はオランダ語をはさんで行われた。ペリー側の英語での発言を艦隊の通訳がオランダ語に訳し、それを森山ら日本側の通訳が日本語に訳す。幕府側が発言する時はその逆、という流れだった。

 森山は「ペリー提督日本遠征記」に何度も登場する。交渉の通訳や公式文書の翻訳だけではなく、途中段階の打診を担ったり、ペリーら一行の横浜村視察に同行したり。さらに、吉田松陰らが下田(静岡)でペリー艦隊に密航をはかる事件が起きた直後も、現地に駆けつけた。

 「日本の役人の中ではいつも一番活動的で、いまや主要なスポークスマンとなっている」と記している。

 ただ、彼の英語については「少し英語を話す」「英語に通じていた」ぐらいで、口にした英語まで引用されている堀達之助とはずいぶん違う。

 なぜだろう…

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