[PR]

 没後36年を経て21日に公開された湯川秀樹博士の終戦前後の日記には、生涯語らなかった原爆研究についての記述が散見される。戦後一貫して平和と核廃絶を訴えたが、その転機となった、「反省と沈思の日々」と後に雑誌に記した沈黙の期間の動静も浮かびあがる。

〈湯川秀樹〉 1907年東京生まれ。旧京都帝国大学(現・京大)で学び、34年に「中間子論」を発表。49年、日本人初のノーベル賞となった物理学賞を受賞。戦後は平和運動に力を注ぎ、55年に核兵器と戦争の廃絶を訴えたラッセル・アインシュタイン宣言に署名。パグウォッシュ会議にも参加し、晩年まで核なき世界の実現を訴えた。81年死去。

戦前、動いていた二つの研究

 「午後 三氏と会合 F研究相談」。1945年2月3日付の日記はこう記されている。F研究は旧海軍の委託を受け、京都帝国大(現・京都大)が極秘で進めた原爆研究の名称だ。Fはfission(核分裂)の頭文字。指揮をとった荒勝文策教授のもと、後にノーベル物理学賞を受ける中間子論ですでに世界的に有名だった湯川博士が理論を担当した。この日の日記には、「荒勝、堀場、佐々木」という名前が書かれ、計4人で学外で打ち合わせをしたと記されている。

 日本の原爆研究はF研究と、旧陸軍の委託で理化学研究所(東京)が行った「ニ号研究」がある。戦況を打開する手段として、海軍が研究を本格化させたのは43年ごろ。44年10月には、大阪・中之島の海軍士官クラブ「水交社」で京大と海軍によるF研究の初会合が開かれた。原爆製造に欠かせないウランの濃縮計画の報告があり、湯川博士も核分裂の連鎖反応について報告したことが知られている。

 翌45年5月には「F研究 決定の通知あり」、6月は「F研究 打合せ会、物理会議室にて」と記されている。

 7月21日、「午前雨 涼し 朝七時過家を出て京津電車にて琵琶湖ホテルに行く、雨の中を歩く。帰りは月出で九時帰宅」。日常生活の記述にも読めるが、この日はF研究の海軍との合同会議が大津市で開かれた。

 日本の原爆開発に詳しい山崎正勝・東京工業大名誉教授(科学史)によると、原爆の原料となるウランの入手が困難なことから、F研究はこの日の会議で事実上終了したという。原爆研究はF研究、ニ号研究とも失敗に終わった。

終戦後、湯川博士は…
日本の原爆研究に名を連ねていた湯川博士。記事後半では、F研究の最後の会議の様子や、戦後にGHQから受けた取り調べに関する記述も紹介します。

 F研究をめぐる湯川博士の日記…

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

有料会員限定記事こちらは有料会員限定記事です。有料会員になると続きをお読みいただけます。

980円で月300本まで有料記事を読めるお得なシンプルコースのお申し込みはこちら