[PR]

 音楽のうねりに合わせて器に草木を配し、観客の目の前に一つの景色を出現させる。これが、平尾成志さん(36)独自の「盆栽パフォーマンス」だ。古くさい中高年の趣味というイメージを吹き飛ばし、BONSAIの魅力を世界に発信する。夢は、2020年の東京五輪・パラリンピックの開会式で、パフォーマンスをすることだ。

 東京・新宿の百貨店前に9月の週末、観客の視線を一身に浴びる平尾さんがいた。DJの繰り出す音楽の中、鉢から抜いた木の根を「爪」と呼ばれる道具でほぐす。こぼれ落ちる土から立ち上る、生暖かい匂い。台に置いたオブジェのような「器」に、次々と草木を配していく。

 ハゼ、ヤブコウジ、コガネシダ。クラブ調の音楽が最高潮に達するころ、平尾さんがゴヨウマツを手に、ひらりと台に飛び乗った。ぐらつく先端をとっさに木片で支え、フィニッシュ。ビルの谷間、突如立ち現れた「秋の山」。観客の緊張が、ほうっと緩んだ。

 これが、平尾さんの「盆栽パフォーマンス」だ。バーやクラブなど人が集まる場所で、DJやバンドと競演し作りあげる。その間30~40分。作品は観客のインスタグラムやツイッターを通じ、拡散されていく。「中高年の趣味」「古くさい」。そんなイメージを打ち壊す熱量で、国内外に盆栽の魅力を発信する。技術指導も含めて訪れた国はスペイン、ブータンなど約20カ国に及ぶ。

 「ショーとして見せるものではない」「音楽を流すなんて」。業界からの、そんな異論が耳に入ることもある。平尾さんは「こんなのは盆栽じゃない、と言う方もいますね」とさらり。「でも、ここから枯らさずに1本1本成長させていくんです。だから、盆栽と言えると思います」。口調に揺るぎはない。だが、職人らしからぬ華やかさの漂う盆栽師は言う。「僕、一番最初に大きくこけるんですよ」

「陸上一筋」の学生の一目ぼれ

 徳島県三好市の緑豊かな山あいで育った。中学で始めた長距離走で才能を伸ばし、京都産業大に推薦入学する。でも、心の中では「燃え尽きた」と感じていた。厳しい陸上部の練習や寮の上下関係に悩み、やめることばかりを考えていたが、応援してくれる祖母を思うと踏み切れなかった。

 ある日、京都に遊びに来た家族とともに東福寺の本坊庭園を訪れた。美しいコケと切り石による市松模様で知られる、昭和の作庭家・重森三玲の代表作。一目見ただけで、重苦しい気持ちが吹き飛んだ。「日本の文化を継承していくって、かっこいい」。父の勝さんに「庭師になりたい」と告げたのは大学4年の時。だが、勝さんの知人を通じて会った造園業者に「やめておけ」と言われる。途方に暮れたまま、盆栽の展示を見に行った。

 作品を下からのぞき込んだ瞬間、驚いた。「こんな薄っぺらい鉢の中に林があるなんて、どういうことや!」。山の中を自転車で走り回り、秘密基地を作った「悪ガキ」時代の記憶がよみがえる。「ああ、面白いなあ」。その日のうちに、将来を決めていた。

 盆栽園の家に生まれたのでも、盆栽に親しんでいたのでもない。そんな若者が、なぜ飛び込めたのか。母の優子さん(64)は、修業時代の息子の言葉を覚えている。「1秒を競う陸上の世界と違って、時間がゆったりと流れる仕事は、めっちゃええ」

ソフトモヒカン姿で入国できず

 卒業後に弟子入りしたのは、さいたま市の「蔓青(まんせい)園」。関東大震災で被災した東京の盆栽業者が移り住み、名品盆栽の産地として知られるようになった「大宮盆栽村」にある。90歳近かった3代目の加藤三郎さんは、初対面の平尾さんに言った。「盆栽はもっと世界に出ていかなくては」。年老いた師から発せられた「世界」という言葉に、面食らった。

 三郎さんは「自然を愛する心は平和な世界につながる」との信念の下、海外から弟子を受け入れ、各国で技術指導にあたった「国際化」の先駆者。2008年に亡くなったが、息子の初治さん(75)は「平尾君の外交的な才能を見抜き、海外に広げる手伝いをしてほしいと言っていた」と話す。

 1年目が終わるころ、猛烈な不安に襲われた。「一人前になっても食べていけるんだろうか?」。「日本盆栽協会」の会員数は現在約5千人で、約30年前の4分の1ほどに減っている。職人の雇用環境も安定しているとは言えない。園を開こうにも、資金をためられないのではないか。

 「とにかく今やれることをやろう」。深夜まで残り、手入れに必要な技術を反復練習をした。剪定(せんてい)や芽摘み、針金かけ。園内の1千本を超える盆栽に水をやり、気候や木の調子を見極める観察力を磨いた。枯れる寸前まで弱っていた客のゴヨウマツを約1年半かけて、よみがえらせるまでになった。

 5年の修業を終えた平尾さんは09年、園を巣立ち、師匠の言葉を胸にスペインに旅立つ。「業界は衰退していっているのに、解決策を見つける努力をしていないように見えた。自分が何もできずにいるのも、不安だった」。未知の場所で自分の腕が通用するか知りたい。現地の愛好家の盆栽を世話するはずだった。

 だが、いきなり出ばなをくじかれる。英語が苦手だった平尾さんは、経由地のオランダの空港で入国審査官に質問攻めにされ、しどろもどろに。ソフトモヒカンで赤い革ジャン、という装いも影響したのだろうか。結局、理由も分からぬまま入国拒否され、日本に帰国した。「大こけ。僕がなめていたんでしょうね」

 盛大な送別会で送り出された手前、引き下がれない。友人に助けてもらい、先方と英文でのメールをやりとり。徹夜でスペイン語を学んだ。2週間後、無事入国。覚え立ての言葉と、「お酒、あとは関西人の強みのボディーランゲージで交流した」。

 帰国後、海外での仕事が入り始める。自ら人脈を築き「場」を作るやりがいを感じた。平尾さんの代名詞となったパフォーマンスも、欧州生まれだ。海外では盆栽の制作過程を見せる実演が好まれる。だが、数時間かけて技術を披露するため、愛好家でも最後まで見ない人がいる。「知らない人でも楽しめる方法はないか」。11年に訪れたイタリアで通訳とも相談。翌年、クラブやカフェで時間を縮め、音楽とともに実演してみた。バンド目当ての客がざわつき、一斉にスマホが自分を向く。手応えを感じた。

海外に「逃げている」のか?

 一方、日本から盆栽を輸入する現地の業者に言われた言葉は、胸に突き刺さった。「渋谷や新宿で若い人に『盆栽』と言っても、なんで知らないんだ? まず、そっちをどうにかしろ」。「海外に盆栽を広めると言っていたが、単に、日本の現状が嫌で、海外に逃げていただけかもしれない」。目が覚めた。

 昨年、香川県などで開かれた「瀬戸内国際芸術祭」で、平尾さんは地元のクリエーター集団「瀬ト内工芸ズ。」と盆栽を使ったプロジェクトを企画した。古民家の庭を瀬戸内海に見立て、座敷に砂を敷き枯山水に。映像や音楽も絡めた空間アートにした。「瀬ト内工芸ズ。」の村上モリローさん(39)は「盆栽の現状を変えたい彼と、地方でデザイナーが活躍できるとアピールしたい僕らの化学反応が起きた」。大勢の島民が訪れ、「盆栽ってええね」と言ってくれた。平尾さんが、何よりうれしかったことだ。

 挑戦は続く。昨年5月には、さいたま市内に盆栽園「成勝園」を開いた。自己資金に加えて融資で資金を調達したが、予想以上にお金がかかり、軌道に乗せるのはこれから。園では、盆栽の将来を担う若者も育てていくつもりだ。

 次の夢は、20年の東京五輪・パラリンピックだ。「開会式でパフォーマンスをしたい」。まだ、足がかりはない。でも「ほんまに出てやろうと思ったら、かなうんじゃないかな。そのステップまで盆栽を押し上げたい」

(年齢は11月現在)

プロフィル

1996年 徳島県立美馬商業高校(現つるぎ高校)入学、陸上部で長距離選手として活躍

99年 京都産業大経営学部入学

2003年 同大卒業後、さいたま市の蔓青園に弟子入り

08年 弟子としての修業を終え、同園で職人として働き出す

09年 スペインで盆栽技術指導

13年 文化庁の文化交流使として伊、独、米国などを訪れる。中国で開かれた「世界盆栽大会」に参加

15年 ミラノ万博で盆栽パフォーマンスを披露

16年 春~秋にかけ「瀬戸内国際芸術祭」で「瀬ト内工芸ズ。」と共に「feel feel BONSAI」を企画。さいたま市西区に、自身の盆栽園「成勝園」を開く

メモ

 祖父の趣味…材木を商う家業を起こしたのは母方の祖父。「これまで木を切って生計を立ててきたから」と、引退後は木を育てる盆栽を趣味にしていた。平尾さんは子どもの頃、よく祖父母の家を訪れて作品を見ていたが、当時はそれが「盆栽」だとは知らなかったという。

 悪ガキ…小学生の頃は、近所の田んぼの水を全部抜いてしまったり、ビニールハウスを棒きれでめちゃくちゃにしたりと、随分「悪さ」をした。母の優子さんは「私も主人も仕事で忙しかったし、構ってほしかったのかも」と振り返る。

 ファッション好き…大学生の頃は美容師に憧れ、寮仲間のヘアカットを「発泡酒の缶2本」で請け負っていたこともある。ファッション好きで、パフォーマンスの時によく着る「鯉口シャツ」などの装いは自分で考えている。(増田愛子)