新潟県の上越市にある「京美容室」。関原英里子(56)は、思い上がっていた。
〈わたしがいるから、この店は成り立っているんだ〉
〈従業員は、会社の「駒」。辞めるなら辞めていいわ、補充はいつでもきくから〉
そして、関原の口癖は、「ああー、忙しい、忙しい」。
経営は、業界の常識どおりに経営していた。
閉店後、カットなどの勉強会をする。もちろん、勉強会は無給である。残業代、なし。ボーナス、なし。有給休暇、なし……。
元気な女性経営者がいると知れ渡り、地元のタクシー会社の男性経営者が、関原に声をかけた。
「新潟県中小企業家同友会に入らないか」
2005年、関原44歳の時である。
◇
中小企業家同友会とは、47都道府県それぞれにある経営者の集まりだ。理想の経営者になろうと勉強し、懇親を深めていく団体だ。
「日本の主役は中小企業だ。なぜなら、日本にある企業の99.7%が中小企業で、働き手の約7割が中小企業に勤めているのだから」
そんな、当然といえば当然、でも、この大企業中心の世の中でなかなか伝わらないことを伝えようと、がんばっている団体だ。
理想の経営者になるための勉強方法。それは、全国のメンバーから人を呼んで、講演してもらい、いくつかのテーブルに分かれて参加者たちは聞く。そして、テーブルごとに意見を言い合い、集約して発表する。
もうひとつの勉強方法は、入会したメンバーに考えさせること。先輩メンバーたちがさまざまな助言をして、経営者とはどうあるべきか、会社は何のためにあるのか、そして、どうやったら成長させることができるのかを徹底的に考えさせるのである。
「新潟県中小企業家同友会」に誘われ、関原は入会した。懇親会に参加すればいいや、と。
2009年、徹底的に考える会に参加してみた。
そこで、関原は、先輩たちから、ぼろくそに言われた。
「あんたはカネにこだわりすぎている。従業員の幸せをまったく考えていない」
「あんたには人間味がないね。愛情がないね」
「あんたの店には行きたくないね」
がーん。経営者失格。そんな烙印(らくいん)を押されたようなものである。
関原は、自分のことを反省してみた。10人ほどの従業員の顔を思い出そうとした……
〈だめだ。ぜんぜん思い浮かばない〉
それまで、従業員を駒あつかいしてきた。それぞれ名前がついた人間ではなく、従業員A、B、C、というように扱ってきた。
〈それぞれが、さまざまな人生をたどって今を生きている。みんな、それぞれに夢をもっているんだ。そんなことにさえ気づかない。わたしは、サイテーだ〉
そう思ったとき、従業員ひとりひとりの顔を思い浮かべることができた。それまでアルファベットだった従業員たちが、名前のついた人間になった。
◇
関原は、社会保険労務士の知恵を借りて、従業員のみんなにアンケートをとった。
「先生ばかりが忙しいのではないのに、忙しいと言い過ぎ」
従業員たちは、美容師でもある関原のことを「先生」と呼ぶ。
「休みがない」「職場環境が悪い」
そんなことも書かれた。いちばんショックだったのは、
「私たちは先生のために働いているんじゃない」
関原は、自分は従業員のために働いている、と思っていた。自分が会社を切り盛りしているから、あなたたちは給料をもらえるのよ、と。
もし、むかしの関原なら、従業員全員を辞めさせていただろう。
けれど、関原は、確実に変わっていた。
〈よし、わたしは生き直そう。すべてをリセットだ〉
どうリセットするか。関原には、いいお手本がたくさんいた。それは、同友会のメンバーの一般企業である。
美容室業界の常識は、同友会のメンバー企業にとってみたら非常識もはなはだしかった。
カットなどの勉強会だって仕事。なのに、時間外にするなんておかしい。しかも、残業代もつかないなんて、非常識だ。
関原は、勉強会を午前中にすることにした。その時間は、開店休業にすれば対応できる。もちろん、パートさんにも時給がつく。
きちんと食事がとれ、トイレにもいけるよう、従業員のスケジュール管理も徹底した。
正社員の年間休日は108日、有給休暇20日にした。さらに、従業員との交換日記も始めた。
美容室だけでなく、エステ、ネイル、ブライダルなどもはじめた。シャンプーや薬剤などで手荒れがひどくなってしまった従業員がいても、ほかの事業に異動してもらえれば、長くはたらいてもらうことが出来る。
保育園や学校の行事にも参加できるように、シフトをしっかり調整。早退や時差出勤などもできるようにした、
社員からパートへ、そしてまた社員へ、といった雇用形態の変更についても、関原はしっかり相談に乗っている。
こうした取り組みをしているうちに、関原は気がついた。
〈経営とは、従業員の生きている時間をいただきながらすることなんだ〉
〈従業員の貴重な時間を使ってもらうのだから、労働環境をよくして十分に力を発揮してもらわなくては、申し訳ない〉
関原が営む「京美容室」は、上越市内に3店舗。従業員は26人。5年目離職率9割、といわれる業界で、離職はほぼゼロになった。出産でやめた後の復帰率も95%を誇る。
「でも、普通の企業への道は、まだ半ばです。特にお給料を増やさなくてはなりません」
◇
関原は考えた。
〈自分の美容室だけ良ければいいのだろうか。いや、違う〉
すこしでも業界の役に立ちたい。人間らしく生きることができる業界にしたい。
関原は、業界にさまざまな提案をはじめた。
ひとつは、美容室の売り上げを増やす仕組みづくりである。
美容室の宿命は、お客さんを待つ時間は売り上げがないこと。エステやブライダル美容を組み合わせて、何もしない時間をなくせば売り上げが増え、従業員に還元できる。
この7月には「MA,S(マーズ)」という会社をつくり、エステをあわせた集客システムを美容室に提案している。
さらに、東京の医療機関の協力で、妊娠中の美容師が働きながら健やかに子どもを産むためのマニュアルを作成した。専用のバッジもつくった。
美容室の経営者が、妊娠した美容師さんにしてはいけないことは何でしょう?
「まず、妊娠した美容師に『すいません』と言わせないことです」
美容師の多くが、経営者にこう言ってくるのだ。
「すいません、子どもができました」
おめでたいことなのに、なんで謝るの?
従業員の妊娠を告げられた経営者は、「えっ」と困った顔をしてしまうことが多い。妊娠でひとり戦力ダウンしてしまうと、店の運営がたいへんになるからだ。
でも、経営者の「えっ」という表情、「まいったなあー」という一言が、妊娠したスタッフに罪悪感を与えてしまう。
「それも、ぜったいダメです」
妊娠初期、中期、つわりの時の対応方法。そんなこともまとめた。
例えば、妊娠初期は、できるだけ体に負担がかからないような仕事をするように配慮する。つわりで、においに敏感になっているときは、仕事を変える。
そして、体調が悪いと申し出があったときは、すみやかに帰宅を促すか、休憩をとってもらう。
ふつうのことのように見えて、これがなかなかできない。マンパワーに頼る美容室なので、無理させてしまいがちなのだ。
「無事に産んでもらうことも企業の責任だと考えてください」
美容室の社長として、関原は悔しくてたまらないことがある。入社が決まった人の親が、たまにこう言うのだ。「美容師なんかにするために育てたんじゃない」
「美容師なんか」と言われない世の中にする。関原は、人生の後半を捧げる覚悟である。(敬称略)
◇
中島隆(なかじま・たかし) 朝日新聞の編集委員。自称、中小企業の応援団長。著書に「ろう者の祈り」(朝日新聞出版)、「魂の中小企業」(同)、「女性社員にまかせたら、ヒット商品できちゃった」(あさ出版)、「塗魂」(論創社)。手話技能検定準二級取得。
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