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 伊方原発(愛媛県伊方町)の敷地に食い込むように、四国電力に売却されなかった「畑」がある。いまは森になった。地主の男性は2005年に92歳で亡くなるまで原発反対を訴え続け、千点を超える資料をのこした。原発の建設が地元に与えた影響を物語る貴重な記録として、研究者らが保存に乗り出した。

 伊方1号機の原子炉建屋の南約800メートル。瀬戸内海に滑り落ちそうな斜面の中ほどに、敷地と隔てる柵で囲まれた約1600平方メートルの森がある。農家だった広野房一(ふさいち)さんが四電に売らなかった畑で、今は親族が受け継いでいる。

 伊方町は原発建設計画が明らかになった1969年7月、四電と「敷地の確保に関する協定」を結んだ。委託を受けた町が町議会とともに地主を説得。翌70年4月には65万平方メートルの地主計123人と契約締結が完了した――。87年発行の町誌は経緯を淡々とつづる。

 広野さんは、大学ノートに売買をめぐる生々しい声を書きとめていた。売買契約がまとまる直前の70年3月22日夜、地主たちと原発反対派住民が話し合った。「強引に仮契約の調印を強要され……」「害がないからと云(い)ふ事で調印に応じた」などと、地主の名前と発言が並ぶ。広野さんは拒否を貫いたが、以降も地主の切り崩しは続き、一人またひとりと手放した。

 広野さんのノートは、原発の建設計画判明時の「壱号」から計16冊。反対署名の数から集会用マイクの電池代まで、32年間の出来事が丁寧に記されている。

 だが筆跡が乱れる時もあった。77年1月に伊方1号機が初臨界した後の3月25日の記述は怒りがにじむ。

 人類消滅之(へ)の道をたどる一里塚

 長崎 広島の原爆投下は一瞬の出来事であった 思い起せよ 同胞よ、伊方の住民よ

 広野さんは広島原爆のキノコ雲を目撃した。その光景と「原子力の平和利用」は相いれなかった。近隣の反原発団体が合流した「伊方原発反対八西連絡協議会」や伊方1、2号機の設置許可取り消し訴訟原告団の中心的存在となっていく。

 ノートの記録も忙しさを反映し、地元の集会や裁判の打ち合わせ、町長らとの面談内容、関連する新聞記事の書き写しなど多岐にわたる。視力が衰えてきても、濃い罫線(けいせん)を引いてまっすぐに文字を書き続けた。しかし01年、「総論」と題した強い筆圧の文章で唐突に終わる。前年12月、提訴から22年半後に出た伊方2号機をめぐる松山地裁判決は、安全審査時の活断層の判断の誤りを認めながら、設置許可を取り消さなかった。

 全く驚きの一語に…

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