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子規に始る 熱狂ファン

 〈負けん気〉 愛媛――その意は美しき女とか。温暖の気候、海の幸、山の幸、そしていで湯。

 “伊予はやさしい土までも”。

 四国路、八十八カ所の霊場をめぐるお遍路はいい伝える。しかし恵まれすぎた風土は、人一倍がんこで、負けずぎらいの人間を育てるものだろうか。元学習院院長の安倍能成、前国鉄総裁の十河信二、刀剣の重要無形文化財・龍王子貞次……。そして阪神タイガース監督の藤本定義。

 野球ひとすじ五十年。松山商で佐伯達夫に、早大では飛田穂洲に鍛えられた藤本は、東鉄を経て巨人監督になる。以来四十年、そのほとんどをプロ野球監督として勝負の世界を歩みつづける。色紙を出すと“自力”と書く。エピソードが多い。

 水原茂の東映と日本選手権を争った37年。「どうです勝算は」とたずねられたとき、目をむいてこういった。「いままでしょうちゅうばかり飲んでいた連中が、急に特級酒を飲むようなものです。そんなチームに……」。

 いま一つ、三原脩の大洋と優勝をせりあった39年のある大切な試合のこと。三原は左打者を迎えたピンチにワンポイントだけ投手秋山を左翼へまわす奇策が成功して勝った。そのとき「さすがに三原」といわれたが、藤本はすまし顔でこううそぶいた。「あれは大正4、5年ごろ松山で流行した野球ですよ」。

 松山商時代にたたきこまれた香川県の野球人に対する負けん気が、いまなお燃え続ける。63歳。

 〈まりを投げたき〉 松山の野球は、俳人・正岡子規ではじまる。一高時代の明治21、22年ごろ、母校松山中の生徒に教えたのが、初めてだといわれている。そのとき手ほどきを受けた一人に河東碧梧桐があり、高浜虚子も野球で子規を知った。

 「子規は少年のころからグループ活動が好きだった。グループにはチームワークが必要だ。野球は彼の性格にピッタリだったのでしょう」。子規の研究家、愛媛大・和田茂樹教授の分析である。

 春風や

  まりを投げたき

   草の原

 子規のペンネームの一つに「野球」と書いて「ノボール」と呼ばせる雅号がある。名前の升(のぼる)をもじったものだ。子規は大変な野球狂だった。

 この子規の野球技、野球観は、やがて中予の松山中を源に東予の今治、西条。南予の宇和島の各中学へと流れ、松山商に代表される、ねばり強さと“狂”の字がつく同県特有の高校野球ファンをつくる。

 〈ファンは育てる〉 午前中に仕事を終えて、午後からは必ず練習を見に行く――。これが昔から伝わる松商ファンの日課だ。冬のトレーニングの間でも10人余り。夏の予選前になると200人はくる。母校野球部の基礎を固め、戦前の特異なチームの嘉義農林をつくりあげた故近藤兵太郎、初代阪神監督で、いま大洋球団の代表をつとめる森茂雄。フィリピンで戦死した阪神の強打者景浦将、早大時代に若くして死去した強肩の捕手・藤堂勇、好投手だった故三森秀夫、早大で華麗な守備を見せ、現在は共同印刷の要職にある高須清。そして全国制覇(は)をとげたときのメンバー、セ・リーグ関西審判主任の筒井修、巨人の二塁手として鳴らした野球解説者の千葉茂、阪神のコーチをつとめた伊賀上良平。戦後は契約金の入札で話題をまいて中日入り、いま名古屋でサラリーマンとして第二の人生を送る空谷泰(現姓・児玉)らは、こうした熱狂的なファンのシッタを浴びて成長した。

 最近は東予もすごい。巨人のコーチ・藤田元司、東映の青野修三は西条。この西条が34年の第41回大会に金子哲夫(元阪神)の好投で初優勝したときの監督が熱血漢の矢野祐弘、遊撃手が阪急の森本潔だ。そのあと矢野は新興の亜細亜大を引受けて東都大学で優勝させる。今治には西鉄コーチの重松通雄(越智中)がいる。南予では法大で活躍し戦場に消えた有請末雄(宇和島中)阪神のコーチ・谷本稔(八幡浜)が目立つ。東京教大教授の山崎肯哉は名門・松山中の出身。

 「ファンの熱意は確かに選手を育てる。しかし度が過ぎると……」。県高野連の前理事長・柏木清次郎、現理事長の砂田肆朗らは、何よりも、これを心配し対策に頭を痛めてきた。だがここ数年、その努力が実り、トラブルで埋まった愛媛県高校野球史から脱皮しつつある。(1968年5月7日掲載)

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