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道産子の夢 いつ実るか

 〈ああ、スタルヒン〉 「日本記録まであと二つ、と思うんやが、あかん。スタさんは大した投手やったなア」――さすが強気の金田(巨人)が思わず天を仰いだ。通算84の完封をやってのけたビクトル・スタルヒン。栄光の球歴には、悲運の影がつきまとった。

 ロシア革命に追われた両親とともに、三歳で北海道へ。旭川中学に進んだころは190センチ、75キロ。快速球は道内に鳴りひびいた。それなのに、甲子園は踏めない。昭和8年の道予選決勝で、二年生の彼は北海中を4安打、9三振に押えたが、5―3の惜敗。味方が9失策、11盗塁を許したからだ。

 翌年、父が殺人で入獄。スタルヒンはまた決勝でエラー負け。ドン底の秋、ベーブルース一行を迎えうつ全日本に引抜かれて、運命がひらけた。沢村投手出征のあと、巨人を背負って昭和13年に33勝、14年42勝、15年38勝と全盛を誇る。だが戦後、金星、高橋などを転転。交通事故で40年の生涯を終って、もう11年たつ。

 〈球界の屯田兵〉 スタルヒンはロシアだが、北海道の野球はアメリカ直伝だ。明治6年ごろ、東京・芝にあった開拓使仮学校(北大の前身)で、語学教師ベイツが生徒に教えたという。

 明治30年代には、北大から北海道師範、札幌中学へ、さらに道内各地へと、スソ野が広がった。師範出の下河原清(函館家裁調停委員、81歳)ら小学教員が、明治40年につくった函館太洋(オーシャン)クラブは、日本社会人野球団のハシリとなる。

 こうした草分けのころ、他郷の人びとが“屯(とん)田兵”のように活躍した。たとえば大正7年。太洋クが早大、北大、札鉄を函館に招いて、道内はじめての有料試合を催したとき、北大のエースは文化勲章の京大名誉教授・木原均(東京麻布中)。早大の控え捕手が久慈次郎(盛岡中)。久慈はやがて函館太洋クにはいり、42歳の昭和14年、札幌・円山球場で送球を頭に受けて死ぬまで、17年のあいだ都市対抗で活躍するかたわら、道内の中学を指導して歩いた。

 〈どさん子たち〉 北海道から全国大会への初陣は大正9年、北海中学。以来24回という最多出場で甲子園の名門となるが、このときの右翼手が飛沢栄三。上級生の野呂栄太郎(獄死した共産党員)に兄事して、野球と剣道にはげんだ。早大を出て母校へ戻り、野球部長36年、甲子園を16回踏む。つねに率先、すべり込みも示し、生徒をシッタして老いを知らなかった。「なんとか大優勝旗を北海道へ」の夢も果されぬまま、昨年64歳で世を去った。

 飛沢の先輩に永田庚二(立教大主将―東京ク)チーム仲間に水谷喜久男(立教大、釧路鉄道局長のとき洞爺丸で遭難)、後輩に俳優・益田喜頓がいた。益田は函館商で強肩好打の三塁手。三年生で北海中へ。さらに慶応商工、函館太洋クでもプレーした。「スカウトされたハシリでしょう。芸がヘタでも何とか役者を続けているのは、野球で教えられたネバリのおかげ」と青春を懐しむ。戦後は塩谷辰哉(早大―拓銀)、佐藤進(サンケイ)吉沢秀和(巨人)谷木恭平(立教大―富士鉄)など、北海OBは数えきれぬ。

 〈雪のごとく…〉 打倒北海――道内の野球はこの目標をめぐって動く。むかし小樽、函館、近ごろは苫小牧、帯広、釧路……。サケ、マス、石炭から、紙、鉄、ミルクへ――地区の浮き沈みが、野球に反映するようだ。

 小樽中からは函館太洋元監督・町谷俊信(早大、工場経営)立教で首位打者の川崎信一。甲子園で審判14年の相田暢一(早大監督―日本カーバイド工業人事部長)。そして五輪スキー選手・安達五郎は「予選でのエラーを何度も夢にみた」という。函館中では俊足の内野安打王・斎藤達雄(立教大)、評論家・沼沢康一郎(早大―元毎日)。函館工に佐藤公博(南海)帯広柏葉から品田栄太郎(法大―拓銀)。札幌商で当銀秀崇(駒大―阪急)

 こう並べると、ある共通点に気づく。地味で、おとなしく、プロで伸びなやむ傾向だ。「半年は雪、というアキラメと弱気。競争が乏しく、他人をけおとしても、という激しさがない。先輩が内地へ出たまま戻らず、指導者が足らぬ」と沼沢はいう。雪のように素直でモロい野球、なのだろうか。(1968年6月1日掲載)

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