【動画】高校球児にメッセージを贈る松井稼頭央さん=長島一浩撮影
[PR]

 PL学園を目指したのは、子どものころに桑田(真澄)さんや清原(和博)さんを日生球場まで見に行ったことがきっかけです。憧れのPLで3年間、野球ができたことは自信になりました。

 中村(順司)監督も、打ち方や守り方、投げ方の手本を自ら示してくださったんです。それがわかりやすくて。そのときに学んだことが、今の技術の土台になっています。

 ただ、高校の3年間はけがばかりでした。ひじと肩です。筋力と骨のバランスが合っていなかったんでしょう。筋力が強すぎて骨が引っ張られ、骨に亀裂が入っていました。

 春には投げられたのに、夏の地方大会が近づいてくると、また投げられなくなってしまう。3年間でちゃんと投げられたのは、3年の夏の大会だけですね。

 2年春に選抜大会に出たときは投げました。準々決勝の東海大相模戦です。監督に「投げろ」と言っていただいて。医者からは「50球ぐらいしか投げられない」と言われていて、結局50球もたずにノックアウトされました。相手投手の吉田(道〈とおる〉)さんのキレとのびのある直球を見て、全国の舞台に出てくる投手はやっぱりすごいと思ったのを覚えています。

 3年夏は大阪大会で決勝まで勝ち上がりましたが、近大付に終盤に打たれて高校野球が終わりました。負けてあれだけ泣いたのは人生で初めてじゃないでしょうか。3年分くらいの涙があふれてきました。

 あの年は大会の日程が順延して、決勝が8月1日になった。ちょうどPLの花火の日になったんです。勝って甲子園出場を決めて学校に帰れば、PLの関係者の方々に祝福されると思っていました。でも負けてしまって。申し訳なくて、学校に帰りづらかったです。

 大阪大会まで、練習試合ではほとんど負けなかったんです。力のある選手がそろっていたので、絶対に甲子園に行けると思っていました。でも負けた。そのときに、あらためて上には上がいると痛感させられましたね。

 けがに泣かされた高校時代は、いつ挫折してもおかしくない状況でした。そんななかでも野球を続けられたのは、監督が僕を野手として使うなど、試合に出られる可能性を探ってくださったからだと思います。また投手としてマウンドに戻るんだというモチベーションになっていたような気がしますね。

 そのけががあったから、プロ野球選手としての今の自分があるのかなと思うんです。野手になるきっかけになったのかもしれないですから。だから、球児はけがをしてもあきらめないでほしい。次のチャンスがあるから、また強くなってグラウンドに戻ってきてほしいです。

 高校時代の練習や寮生活を乗り越えたから、どんなことにも耐えられると思いましたね。でも、自分一人ではがんばれなかったと思う。続けられたのは、やっぱり仲間がいたからです。(聞き手・野田佑介)

投げられない時も明るかった

 〈PL学園時代のチームメートの田中和人さんの話〉 高校時代は松井がエース、僕が4番を打っていました。彼はけがで投げられない期間が長かったけど、落ち込んだ様子は見たことがありません。いつも明るかった。負けん気が強く、練習の短距離走や筋トレではいつも一番を目指していました。松井が投げているときは安心できましたね。コントロールが良く、大崩れすることがなかったから。最後まで投げ抜くという責任感がありました。ベテランになりましたが、体が動かなくなるまで野球をやりきってほしいです。

     ◇

 まつい・かずお 1975年、東大阪市出身。2年の春に投手として甲子園に出場。93年の第75回大会では、大阪大会決勝で近大付に敗れた。93年ドラフト3位で西武に入団し野手として活躍。2002年トリプルスリー(シーズン打率3割、本塁打30本、30盗塁以上)を達成。04年に米大リーグ・メッツへ移籍。ロッキーズ、アストロズなどでプレーし、11年から日本球界に復帰し楽天へ。17年末、古巣西武への復帰が決まった。

関連ニュース