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 全国選手権大会における山形勢の戦績は、99回大会終了時点で23勝57敗。勝率2割8分8厘は47都道府県の中で最下位だ。1985年の67回大会では、球史に残る「事件」が起きる。東海大山形がPL学園(大阪)に7―29の歴史的大敗を喫したのだ。「29」は今でも大会の1試合でのチーム最多失点だ。

 「後進県」からは、有力選手もなかなか出なかった。そんな状況を打破するきっかけになった存在が、プロ野球広島に進んだ栗原健太だ。日大山形高2年の1998年、80回大会で全国の土を踏む。このときは1回戦で敗れたが、プロ入り後に花開いた。2009年のWBC優勝メンバーにもなり、後進の希望の光になった。

 県内各校に刺激を与えたのが、1990年代の酒田南の台頭だ。96年に監督になった西原忠善が、全国で勝つことを目指し県外から選手を積極的に集めた。翌年の79回大会に初出場を果たすと、2015年に同校を離れるまで、春夏計11回甲子園に出る常連校に育て上げた。01年夏から3季連続で甲子園に出た長谷川勇也=ソフトバンク=は、専大を経て、13年のパ・リーグ首位打者になった。

 新興勢力に対抗したのは、やはり「先駆者」の日大山形だった。02年に就任したOBの荒木準也は、寮がないこともあり、地元出身の球児を中心に鍛え上げる。荒木は「外から来た選手と切磋琢磨(せっさたくま)し、結果的に県内全体の球児の技術レベルが上がった」。夏17回、春4回の甲子園出場はいずれも県内最多。06年夏に8強、13年夏に4強と、山形勢の歴史を常に塗り替えている。

 両校に続き、山形中央、鶴岡東も力をつける。山形中央は14年の96回大会、山形勢の公立校37年ぶりとなる勝利を挙げた。鶴岡東は出場4度目の15年に夏初勝利。さらに投手の吉住晴斗が昨年のドラフト会議でソフトバンクから1位指名を受け、県内から初めて「高卒ドラ1」が誕生した。

 1936年の22回大会に山形中が初出場を果たしてから、初戦敗退が続くこと13度。初白星は、73年の55回大会の日大山形までかかった。全国が遠かった黎明(れいめい)期。のちにプロ野球南海で活躍し、2011年に野球殿堂入りする「最後の30勝投手」、故・皆川睦雄がいた。米沢西(現・米沢興譲館)3年の1953年夏、県を制した。ただ宮城、福島勢と争う東北大会決勝で白石(宮城)に敗れ、甲子園には立てなかった。

 かつてより、県内の競争のレベルが上がり、卒業後に活躍する選手も増えつつある。後進県を脱する兆しは、確実に見えている。

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