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 80年前の1938年1月、日中戦争のさなかに、芸人による慰問演芸班「わらわし隊」が中国に派遣された。その一員だった漫才師横山エンタツ(1896~1971)が戦地でつづった日記の写しが見つかった。南京事件が起きた現地の生々しい目撃談や、戦争を題材とする笑いのアイデアが書き留められていた。

 わらわし隊は朝日新聞が吉本興業の協力で始めた。エンタツは最初の派遣に参加。上海や南京などでの体験を手帳につづっていた。手帳の現物は、保管していた遺族が亡くなって行方はわからない。今回、関係者が保存していた写しが見つかった。

 日記は一行が上海に着いた1月17日から、帰国した2月13日までほぼ毎日書かれていた。南京入りして2日目の1月24日付には、揚子江沿岸部の下関(シャーカン)を訪れたと記す。日本軍による南京陥落から6週間後だ。

 「その当時は敵の死体で一ぱいだったそうだが凡(すべ)て我軍の制理であとかたもなし しかし川にはあちこち浮んで居る」(原文ママ、以下同)

 日々の出来事とは別に、箇条書きされたメモもあった。「水がない クリークの死体の水だ だから僕はオブラードで水を包んでのんだ」。クリークとは水路のこと。後にSPレコードに吹き込んだ日中戦争がテーマの漫才「新戦術」「笑ふ城壁」に同じ趣旨のくだりがある。

 日本軍を題材としたこんなメモも書き残していた。

 「砲台の上に沢山(たくさん)の支那の死体がある 日本軍が(死体砲台)」(篠塚健一)

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 〈横山エンタツ〉 兵庫県生まれ。1930年にコンビを組んだ花菱(はなびし)アチャコと、洋服姿で会話を中心に笑わせる近代漫才のスタイルを確立した。漫才「早慶戦」で一世を風靡(ふうび)し、映画界にも進出。アチャコの後は、杉浦エノスケとコンビを組んだ。チャプリンやロイドの影響を受け、ちょびヒゲと眼鏡で親しまれた。NHKの連続テレビ小説「わろてんか」に登場する芸人キースの人物づくりで参考とされた一人。