篠塚健一
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水に苦しんだことが記された1938年1月24日付の日記の写し
日中戦争のさなかだった80年前、慰問演芸班「わらわし隊」を派遣した朝日新聞は、その活動ぶりを伝える記事を掲載した。派遣に先立つ社告には「出征皇軍慰問」のため、国民から寄託された資金の一部を使い、軍当局の援助を受けて派遣を決定した、とある。横山エンタツの日記には、当時の記事にはない現地での出来事の詳細や胸の内がつづられている。
「又敵機現る 各自その場所につく 爆撃キ、セントウキが二十餘器 敵御座んなれと爆音勇ましく浮び上る 百雷の様だ」(原文ママ、以下同)
南京に到着した1月23日付、緊迫する日本軍の様子をそう書いた。飛行場を訪れたこの日、2回目の慰問には約千人の兵隊が集まった、と記す。「電気が暗いのでとてもやりにくい しかし笑にうへた人達(たち)だ 大変によろこんでくれた」
翌24日に下関(シャーカン)を訪れた際には、上海から来た日本兵たちであふれる港を見た。食事時だった。
「皆ハンゴウをあけてかき込みの最中 兵隊さんの足許(あしもと)に十五六の死体が並んで居る」。クリーク(水路)もある戦地で水に苦しむ切実な経験も記す。「死体の浮んで居たクリークの水 揚子江の水を呑(の)んだと新聞でよく見たがそれを僕達は始めて体験した」「早く大阪にかへりて水道の水を思ふぞんぶん呑みたい」
■お辞儀に涙「大阪が恋…
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