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 戦後、沖縄で復帰運動などの主軸を担った沖縄県教職員組合(沖教組)の膨大な資料が同県読谷(よみたん)村に寄託され、村が電子化を進めている。復帰前、米軍基地による被害などについて学校に尋ねた調査からは、米国統治下の教育現場の苦悩が浮かび上がる。

爆音調査「児童生徒が恐怖症に」

 「演習用の砲弾 飛行機からの爆弾 一日五拾発(ごじゅっぱつ)……常に恐怖感におそわれ学習効果僅少(きんしょう)」「近くで爆発音と共に破片が運動場に数カ所飛んで来た 大きい破片で長さ十cm……幸(さいわい)にして児童には被害なかった」

 復帰前の1958年、沖縄教職員会(現在の沖教組)が各学校を対象に実施した、米軍の演習や航空機騒音の被害に関する「爆音調査」への回答だ。

 渡名喜島の学校は「低空による爆音のため授業が出来ない時も多々ある。児童生徒は低空による爆音のため恐怖症になっている」と回答している。渡名喜島には今年1月に米軍の攻撃ヘリが不時着した。当時から騒音被害を受けていたことがわかる。ほかにも「十一日間で六時間四十分も授業中止」「爆音に戦慄(せんりつ)し教室をとび出す児もいる」といった深刻な状況がつづられている。

貴重な当時の学用品リスト

 基地被害以外にも貴重な資料がある。「註文(ちゅうもん)書」という題のファイルもその一つ。ビーカーやフラスコといった学用品のリストだ。地上戦の砲火にさらされ、校舎の再建が急務だった50年代、教職員会の屋良朝苗会長(後の沖縄県知事)らが全国を行脚して募金を呼びかけ、数千万円が集まった。だが校舎建設費には使えず、代わりに学校の備品購入に充てられた。

 全国の友愛がこもった「愛の教具」と呼ばれ、学校に配布された。リストは、そのときに各校が注文したものだ。

 復帰関連の文書には、日の丸の掲揚が自由でなかった当時、復帰への機運を盛り上げようと教職員会が掲揚を呼びかけた際の資料もある。

村立図書館長が寄託持ちかけ

 資料は文書類だけで6444冊。読谷村の村史編集係長だった泉川良彦さん(63)=現・村立図書館長=が、村への寄託を持ちかけた。沖教組事務局の建物が老朽化し、十分に管理できずにいたためだ。読谷村は屋良氏の出身地でもあり、沖教組側も散逸しないよう県内での保存を望んでいて話がまとまった。

 村は、文書類のうち4割の約2600冊、約15万4千ページをPDF化。村史編集室で閲覧できるようにした。一部はインターネットでも見られるが、予算の制約もあり、すべて電子化できるかどうか見通せないという。

 泉川さんは「沖教組は復帰運動や教育、本土との格差の問題など戦後沖縄の社会問題で重要な取り組みを担っていた。多くの研究者がこの資料を研究してくれればありがたい」と話す。

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 〈沖縄県教職員組合〉 教育関係の職員らにより1947年に結成され、52年に沖縄教職員会となり、71年から沖教組となった。米軍統治下の68年、屋良朝苗会長を初の公選による琉球政府行政主席として当選させる中心となった。組織として復帰運動を支え、復帰後も基地撤去運動などを担ってきた。