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(1975年決勝 習志野5―4新居浜商)

 日本に12人しかいないプロ野球の監督で、高校時代に甲子園の土を踏んだ現役監督は5人。その中でも優勝経験者はたった一人だ。今季、4年ぶりにヤクルトの指揮を執る小川淳司監督(60)は1975年夏、千葉・習志野のエースとして全国制覇を果たした。

 千葉勢は3度、夏の甲子園を制している。67年の習志野、74年の銚子商、そして75年の習志野だ。この時代が千葉の「黄金期」といえるだろう。だから千葉代表は大会序盤で負けられない。そんなムードを当時の小川も感じていた。

 同年春の選抜大会初戦では豊見城(沖縄)に0―3で敗退。好投手の赤嶺賢勇(のちに巨人)に2安打に封じられた。地元に帰ると「やっぱり銚子商が出ないとダメか」という声が聞こえてきたという。「それがすごく悔しくてね。石井(好博)監督に怒られて、甲子園の土も持って帰れなかった」。迎えた夏、エース右腕は雪辱に燃えた。

 旭川龍谷(北北海道)との初戦(2回戦)は5失点したが、3回戦の足利学園(栃木)から磐城(福島)、広島商と3試合連続完封勝ちし、準決勝まで29イニング連続無失点でチームを決勝に導いた。だが、快進撃の最中にアクシデントが起こる。

 広島商との準決勝は雨中のゲームで、四回途中に長い中断があった。当時の朝日新聞によると、試合が止まったのは1時間47分。再開すると、右肩に痛みが走ったという。それ以前にも痛みを覚えたことはあったが、「必死になって甲子園に出たい、出たら勝ちたいという気持ちが強くて、あまり感じることがなかった」。何とか準決勝は乗り切ったものの、これまでの痛さとは種類が違った。

 2日間、決勝は順延になった。台風接近による悪天候のためだった。エースの右肩は雨に救われた。準決勝の夜は痛くて一睡もできなかったから、もし予定通り翌日が決勝なら、石井監督に「投げられません」と言うつもりだった。それが順延し、練習では1球も投げずに回復を待った。さらにもう1日休めたことで「何とか投げられる状態」に戻った。

 新居浜商(愛媛)との決勝は8月24日。エースは自分との戦いに没頭していたから、相手のことを考える余裕はなかった。今のように、相手の研究を熱心にすることもなかった時代だ。「極端なことを言えば(情報は)ゼロという状況だった」。決勝では回を追うごとに肩が重くなるように感じたが、頭を真っ白にして投げ続けた。二回に先取点を許し、連続無失点は30イニングで止まる。四回はさらに2失点。「粘っこい打線」に苦しみながらも、傷口を広げず、9回を4失点でまとめた。味方の援護もあって、同点で九回裏の攻撃を迎えた。

 1死一、二塁で5番の小川に打順が巡る。一打サヨナラの好機だったが、当時の記憶がすっぽりと抜け落ちている。「その場面って思い出せないんですよ。苦しかった。早くゲームが終わってくれないかな、という思いがどこかにあったと思う」。結果は右飛で、二塁走者は三塁へ進む。次打者は2年生の下山田。背番号1は、すぐに延長を見据えてキャッチボールを始めた。バックネットを背に、右翼方向に顔を向けた。

 すると大歓声が耳に飛び込んできた。下山田がサヨナラ適時打を右前に放ったのだ。その瞬間は、喜びよりも、安心する気持ちが強かった。「ああ、終わった」。もうマウンドに上がる必要はなかった。

 中大では外野手に転向し、社会人野球の河合楽器を経てプロ入り。ヤクルトと日本ハムで、渋い役回りを演じた。そして引退後、指導者になった。投手としては、甲子園で終わったことになる。「結果でも、肩の方も、僕は完全燃焼したんでね」

 スカウトとしても長く活動し、何度も甲子園を訪れた。そのたびにこう思う。「自分にはツキがあった。高校野球ってやっぱり、力だけでは勝てない」

     ◇

 おがわ・じゅんじ 1957年生まれ、千葉県出身。習志野で3年春夏の甲子園に出場し、夏は優勝投手に。中大で外野手に転向し、社会人野球の河合楽器を経てヤクルト、日本ハムでプレー。今季から4年ぶりにヤクルトの指揮を執る。

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