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 26歳でがんになり、2度の再発も経験した朝日新聞記者の上野創(46)のコラム「当事者のことばから」。これまでに出会った、様々な患者やその家族らの言葉を紹介してつづります。朝日新聞デジタル「がんとともに」のページで随時掲載します。

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「闘いはった先輩たちから命のバトンを受け取り、できることをやってきたんですわ」(参院議員・山本孝史)

2007年12月、58歳で死去

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国会でカミングアウト

 「私自身ひとりのがん患者として……」

 2006年5月22日、本会議の議場で、民主党(当時)の参院議員だった山本孝史さんは、質問者として壇上でこう話し始めました。がんをわずらっていることを、いきなり明かしたのです。

 「あえて自らがん患者と申し上げたのも、がん対策基本法の与党案と民主党案を一本化し、今国会で成立させることが日本の本格的ながん対策の第一歩となると確信するからです」。そう話し、自殺対策基本法の早期成立も求めました。

 感情を抑えつつも真剣さがひしひしと伝わる語りでした。議場は静まりかえり、その場にいた皆が山本さんの声に聴き入ったそうです。

拡大する写真・図版2007年7月の参院選後、酸素ボンベを携えて登院した山本孝史さん。「また仕事ができる。うれしい」と語っていた=国会、鬼室黎撮影

 夜のニュースでこのことを知ったとき、私は驚きました。

 自分ががんであることを他の人に伝えるのは、勇気が必要です。当時はまだ、がん患者への偏見が強い時期でした。

 私はその数年前に、自分が精巣腫瘍(しゅよう)というがんにかかった体験を、手記という形で朝日新聞の神奈川県版に書きました。2度の再発や抑うつの経験、抗がん剤の副作用、死の恐怖や将来への不安、家族や友人への思いなどについて率直につづりました。読者の方々から多くの励ましや体験談を頂き、勇気をもらいましたが、「私は周りに話せません」「知られたくない」「隠している」という人がとてもたくさんいました。「がんにかかったことを公表するなんて勇気がありますね」という言葉もありました。

 こういう反応はある程度、予想していました。

 「なにか悪いことをしたから病気になったのでは」「生活が乱れていたからがんになった」「先祖の供養が足りない」「うつるかもしれない」などと、根拠のない偏見を持つ人がまだ多かったのです。「もうすぐ死ぬ人」という視線を浴び、周囲の人から避けられてしまう心配もありました。

タブー破り当事者として声を

 そもそも、選挙で圧倒的に不利になるので、政治家は自らの病をひた隠す傾向があります。

 12年も前のことです。政治家にとって病気の公表はタブーでした。なのに、山本さんがあえて公表に踏み切ったのはなぜか。

 私の取材に対し、「政治家として要望するだけでなく、当事者なのですよと明かして声を出せば、多くの人が耳を傾けてくれるでしょう。これまで声をあげたがん患者の皆さんのバトンを継ごうと思ったからですよ」と話してくれました。山本さんは亡くなる直前まで、「バトン」という言葉をよく使っていました。

拡大する写真・図版酸素のチューブを付けて本会議に出席する山本孝史さん=2007年、国会、鬼室黎撮影

 「声をあげた皆さん」とは誰でしょう。このころ、日本のがん医療は「海外で使える薬が使えない」「地域によって受けられる医療の差が大きい」といった多くの問題があり、患者や家族たちは苦しんでいました。

 その遅れをなんとかしようと、広島県の新山義昭さん、大阪府の三浦捷一さん、島根県の佐藤均さんら、がん患者たちが勇気を出して立ち上がり、問題点を指摘し、国に改善を申し入れていました。しかし、国はなかなか動きません。

 山本さんは国会質問の半年前に胸腺がんを告げられ、日本の政策や医療の体制を調べてみて初めて、がん医療のお粗末な状況が分かりました。治療で大変ななか、心身のつらさをおして動いた患者たちの存在も知りました。そういう人たちは、いずれも亡くなっていきました。

 「自分たちと同じ苦しみを、後から来る人たちに経験させたくない。たとえ自分たちには間に合わなくても、改善への道筋を付けたい」と駆けずり回った末の死でした。

 彼らの存在を知り、山本さんは「バトンを受け取った」と感じたのです。

政策に患者が関与を

 与野党が対立すれば法案成立は遠のきます。日程はぎりぎり。「特定の病気の名を冠した法律は不要」という意見も根強くありました。

 「あの人は、自分ががんを告白し、議員さんたちの気持ちが一つになれば、成立も可能だろうと考えていました」。妻のゆきさんはそう話します。

拡大する写真・図版妻のゆきさんと話す山本孝史さん=2008年、東京都内、鬼室黎撮影

 実際、山本さんの国会質問のあと、多くの議員が協力する流れができ、大きな社会問題になっていた自殺対策基本法とともに、法案が通りました。

 山本さんがこだわった点の一つは、基本計画を作るがん対策推進協議会に、がん患者や家族・遺族を入れることでした。

 患者は、がん医療やがん政策の当事者であるはずです。でも、それを決める会議のメンバーには入っていませんでした。

 基本法成立の後、朝日新聞に寄せた文章で山本さんは、「政策決定に患者らが関与できる意義は大きい」とし、基本計画には「患者の視点」を積極的に採り入れるべきだ、と主張しました。

 2007年4月以来、2年おきにメンバーが替わる協議会に参加した患者・家族の委員は、これまで20人を超えます。

 その1人は悪性リンパ腫のサバイバーで患者会「グループ・ネクサス・ジャパン」代表の天野慎介さん(44)。全国がん患者団体連合会の理事長として、患者の意見や要望を、国や国会議員、世の中に向けて精力的に発信し続けています。

 「有名無名を問わず、多くの患者や家族のバトンを山本さんが受け取って、あの勇気ある行動につながったと思います。私もそのバトンを引き継いだ1人。基本法成立から10年で改善されたことは多いけれど、難治がんや希少がん対策、受動喫煙の問題など、進展させなくてはいけないことは今もある。重圧も感じますが、私も次の世代に向けて進めていきます」と話しています。

励まし合った先輩記者

 私も、さまざまな方からバトンを受け取ったと思っています。

 山本さんはもちろんですが、25歳年上の先輩記者で、直腸がんのため2002年に56歳で亡くなった井上平三さんもその1人です。46歳で告知を受けた後の経験や気持ちの変化、日々の過ごし方や医療者との関わりの工夫などを、2000年から2年近く、朝日新聞の大阪本社版家庭面(当時)の「がんを生きる」という連載で紹介しました。

 私が神奈川版で連載「がんと向き合って」を書いたのとちょうど重なっていたことから、対談をし、その後も連絡を取り合い、励まし合いました。

拡大する写真・図版井上平三記者=2001年撮影

 「患者が情報を得られるような場を病院内に作ってほしい」「1人の患者の経験を他の患者と共有して生かせるようにできないか」「医師任せにせず患者も共同作業を」といった提案をしました。落ち込んだり不安に駆られたりする心の内を明らかにし、10年間のがん闘病で編み出した「私の患者術10カ条」を紹介しました。多くの反響が届き、読者との交流が続きました。死の2カ月前まで手記をつづりました。

 一方、私のがんは肺に2度再発したのに、なぜかその後の再発はなく、生きています。託されたバトンを自分なりにつなぎたい。そんな思いで発信していきたいと思っています。

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 井上平三さんのコラム「がんを生きる」は再構成され、岩波書店のブックレット「私のがん患者術」として出版されました。井上さんが提案した「私のがん患者術10カ条」を紹介します。

(1)人生観を変えて治療にのぞむ

(2)がん告知されたら再発を覚悟する

(3)揺れ動く気持ちを落ち着かせるためのコントロール術を覚える

(4)医師と医療を過信しない

(5)痛みや苦しみは大げさに伝える

(6)治療記録を克明に付ける

(7)独学で治療法や薬の情報を得る

(8)高価すぎる民間・代替療法には注意する

(9)家族や周囲への気兼ねは禁物

(10)あしたへのささやかな目標をつくる

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拡大する写真・図版上野創記者(46)

上野創(うえの・はじめ) 1971年生まれ、東京育ち。東京本社映像報道部次長。97年、横浜支局員だった26歳のとき、肺に転移した精巣腫瘍(しゅよう)が判明。手術、抗がん剤治療を受け、2度再発。神奈川版に連載した記事「がんと向き合って」が本となり、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。社会部で教育や災害取材を担当、「がん」「自殺対策」「いのちの授業」などを継続して取材。