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教えて!憲法 基本のき:7

 日本国憲法は敗戦後の1946年11月、連合国軍総司令部(GHQ)の占領下で公布された。

 自民党はその「生まれ」を問題視し、GHQに「押しつけられた」と訴えてきた。「押しつけ憲法」論だ。2012年にまとめた党改憲草案を対外向けに紹介する冊子でも、「主権が制限された中で制定され、国民の自由な意思が反映されていない」と批判した。

 ただ、制定までの道のりをみると、そう単純な話ではない。

 日本政府の憲法問題調査委員会(委員長、松本烝治〈じょうじ〉国務大臣)がつくった「試案」を毎日新聞がスクープしたのは、46年2月。天皇の統治権を記すなど、戦前の大日本帝国憲法(明治憲法)とほとんど変わらない内容だった。

 日本政府に民主化をもとめていたGHQはみずから20人あまりで草案づくりを開始。9日後に英文の草案を松本らに手渡した。明治憲法で主権者だった天皇を「象徴」に位置づけ、国民主権を明記。新たに「戦争の放棄」をもりこんだ。

 日本政府は、このGHQ案をふまえて政府案をつくったが、前文をけずるなど大きく修正した。そのため、松本らがGHQ本部に政府案を届けると、GHQ案にふたたび近づけるため徹夜の作業をせまられた。これらの経緯が「押しつけ」と批判される最大の原因になった。

 一方で、GHQの草案はあらかじめ、後にNHK会長になる社会運動家、高野岩三郎ら日本の民間研究者が独自につくったさまざまな草案のエッセンスをとり入れていた。「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(生存権)をさだめた憲法25条もその一つだ。

 政府案は帝国議会での審議でも修正された。9条2項には、「前項の目的を達するため」との文言がくわわった。その後の9条論議で、この文言をよりどころに自衛権を認める主張もなされた。芦田均衆院議員(後に首相)の名をとって「芦田修正」とよばれた。

 GHQのマッカーサー最高司令官は、新憲法が本当に日本国民の自由な意思によってできたものであることを確認するため、施行後1、2年のうちに改正を検討して国民投票を実施することもみとめると、吉田茂首相に伝えていた。だが、実際には改憲に世論の支持がなく、手続きはとられなかった。

 押しつけ憲法かどうかについては、衆院憲法調査会(現・憲法審査会)でも議論され、05年の報告書にもりこまれた。「国民の圧倒的支持を日本国憲法が受けてきたことは明確」との見方が数で上回り、一定の決着をみた。

 自民党も16年の衆院憲法審査会で、「GHQの関与ばかりを強調すべきではないとの意見を考慮に入れることも重要だ」(中谷元氏)として、押しつけ憲法論を表向き封印した。だが、党内には押しつけ論にこだわる議員が少なくない。(藤原慎一)

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 〈連合国軍総司令部(GHQ)〉 太平洋戦争に敗れ、無条件降伏した日本の占領政策をになった。アメリカやイギリスなど連合国の軍人、民間人で組織され、南西太平洋軍総司令官として対日作戦を指揮したダグラス・マッカーサーが最高司令官についた。

 日本が受諾した米英中3カ国によるポツダム宣言に基づき、農地解放や教育の民主化、政教分離を図る神道指令などの政策をつぎつぎに打ち出した。占領は、日本政府が政策を実施する間接統治とし、1952年のサンフランシスコ講和条約発効で活動を終えた。

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 〈芦田修正〉 1946年、政府が国会に提出した憲法改正案は、衆院憲法改正特別委員会のもとに設置された小委員会で修正が図られた。その際、芦田均・小委員長の提案で、戦力の不保持と交戦権の否認を定めた9条2項の冒頭に「前項の目的を達するため」との文言が加えられた。

 これにより、前項(1項)が禁じた国権の発動による戦争や武力行使を目的としなければ、自衛のための戦力を持てるとの解釈に道を開いた。ただ、歴代政府は自衛隊について、戦力ではなく「自衛のための必要最小限度の実力」と解釈しており、自衛隊を合憲とする根拠として芦田修正を採用していない。

 芦田修正をめぐっては、2014年に安倍晋三首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)が、国際法に違反しなければ個別的か集団的かを問わず、自衛のための武力の行使を「全面解禁」できるとの「芦田修正」論を打ち出した。

 芦田修正論は、制約のない形での集団的自衛権の行使や国連安保理決議にもとづく多国籍軍に自衛隊が参加することを容認する立場からとなえられてきた。だが政府はここでもこうした考えをとらず、15年に成立した安全保障関連法では集団的自衛権の「限定容認」にとどめた。