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(17日、平昌五輪フィギュアスケート男子フリー)

 2011年3月の東日本大震災。羽生結弦は、仙台市のアイスリンク仙台で練習していた。大きな揺れを感じ、スケート靴を履いたまま外へ。避難所生活を送った。リンクは氷がつくれなくなり、閉鎖。以前習っていた都築章一郎コーチ(80)を頼り、横浜市のリンクに。練習中に余震があると、羽生だけ外へと逃げた。都築さんは「恐怖感が脳裏にある」と感じた。

 当時、練習の代わりに各地のアイスショーに出場した。新潟県、石川県、福岡県……。11年11月まで、約60回に上った。

 うち十数回を主催したイベント会社CIC(東京都)の真壁喜久夫社長(60)は「ショーなので、絶対転んではいけない。多くのお客の前でミスなく滑ることが求められる」。集中力が必要な環境で、羽生は成長した。平昌五輪の会場で連覇を見届けた真壁さんは「ソチ(五輪)ではジャンプで転んで悔しそうにしていたが、今回はよろけても踏ん張った。こんなにうれしいことはない」。

 羽生は昨年8月、報道陣の取材にこう答えていた。「あれ以上、苦しいことも悲しいことも不便なこともない。つらいときでも乗り越えられるきっかけになった。震災があったから今がある」

 中学、高校時代の羽生にジャンプを教えた仙台市出身の田中総司さん(35)は「震災はつらいことだけど、逆にパワーになった。あいつのスケーターとしての実になった」と話す。アイスショーで訪れたリンクで歓迎され、合間に練習時間を確保してくれた。羽生は当時、感謝の言葉を繰り返していたという。滑れること、支えてくれること、応援してくれること。苦しい練習でも、息が続かなくなるフリーの終盤でも、笑顔があった。

 羽生は連覇後の会見で震災について問われると、10秒ほど間を置いてからこう言った。「本当に大変な日々でした。ソチでもこのような質問をされてどう答えていいかわからなかった自分がいて、今もそのときの自分に何て言ったらいいかわからない」。そしてこうも語った。「(ソチ五輪で)金メダルを持って被災地の方々にあいさつしたときにたくさんの笑顔が見えた。今度はちょっと自信をもって、皆さんに笑顔になってもらえたら」(後藤太輔、高浜行人)

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