拡大する写真・図版東京都大田区の実相寺で開かれた朗読会に参加した絵門ゆう子さん=2003年10月

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「余命」「告知」「宣告」など、どうしてがんの場合はこういう恐ろしい感じの言葉が目立つのだろう。そういう怖い言葉の後に「闘う」だの「壮絶」だの言われるからがん患者は悲劇の主人公になっていく。(元NHKアナウンサー、エッセイストで乳がんを経験した絵門ゆう子さん)

2006年4月、49歳で死去

コラム「がん 当事者のことばから」
26歳でがんになり、2度の再発も経験した朝日新聞記者の上野創(46)のコラム「当事者のことばから」。これまでに出会った、様々な患者やその家族らの言葉を紹介してつづります。

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闘えっていわれたって

 「闘病という言葉をなくしたいっ!!」

マイクがいらないほど声を張り、俳優の小西博之さんがフロアの聴衆に向かって叫びました。2月4日の世界対がんデーに合わせ、「がんとの共生」をテーマに朝日新聞社が開いた催しのひとコマです。

 小西さんは13年前、進行した腎臓がんが分かった後、「死にたくない」と風呂で泣きに泣いたといいます。しばらくは、不安に襲われ、気持ちが落ち込むたびに、声をあげて泣きました。ただ、病気と闘う意識はなく、むしろ受け入れて対応しようと考えたそうです。師匠である萩本欽一さんの「人生は50対50。悪いことも良いこともある」という言葉が胸にありました。

 そうした経験もあり、次のように考えました。

 「がんの場合、他の病気と違い、やたらと『闘病』という言葉を使う。患者の恐怖心を過剰にあおっている。闘えっていわれたって、闘いようがない。がん闘病じゃなく、がん治療でいいじゃないか。がん闘病という言葉を使うのはやめようよ――」

拡大する写真・図版会見でがんについて話すタレントで俳優の小西博之さん=4日、東京都千代田区、池田良撮影

涙あふれた言葉

 フロアに響き渡る声を聞きながら、私は絵門ゆう子さんのことを思い出していました。がんのときによく使われる言葉について、彼女もしょっちゅう憤慨していたなあ、と。「余命、告知、宣告、生存率、そういう言葉が患者を追い詰めるのよ」とプリプリ怒っていた姿が浮かびます。

 絵門さんは、自身の体験から、病院や医師一般に強い不信感を抱いていました。「西洋医療は信用できない」という強い思い込みがあったことから、2000年秋に乳がんと診断された後も、エビデンス(科学的根拠)のある治療から離れて、健康食品や浄水器、体に良いとうたう機器などを渡り歩きました。

 そうした業者はじっくり話を聞いてくれて、「治りますよ」「安心していいですよ」と優しく言ってくれます。一方、保険診療と異なり、高額なものがほとんどです。すがる思いで、大金を払い続ける日々でした。

 しかし、病気はどんどん進行し、呼吸困難で救急外来に転がり込む事態となり、聖路加国際病院で中村清吾医師と出会います。

 「なんで病院に来なかったんだ」と叱られるか、「自己責任だろう」と冷たく突き放されるかと身構えていたら、返ってきたのは想定外の「がまんしちゃったんだね」という優しい言葉でした。

 「がまんしちゃったんだね」。この言葉に涙があふれ、それまでの経緯や気持ちを泣きながら話したところ、さえぎらずに聞いてくれました。この医師なら信頼できると感じ、ずっと避けてきたホルモン療法、そして抗がん剤治療を受けることになりました。

 治療のおかげで体調が落ち着き、朗読コンサートやカウンセラー資格の取得、絵本の執筆など活動の幅を広げました。2003年秋には、朝日新聞東京版の連載「がんとゆっくり日記」を始めました。2006年春に亡くなるまで約2年半、92回にわたって続いたその欄でもよく、「もっと患者が元気になるような言葉を使ってほしい」と書いていました。

拡大する写真・図版信州の山にでかけ、笑顔を見せる絵門ゆう子さん。首の骨を守るために普段はコルセットをしていた=2005年8月、長野県白馬村、夫の三門健一郎さん提供

違和感

 私自身は、「告知」「余命」などの単語についてはあまり気になったことはありません。現実が厳しいのだから、言葉だけ変えてもあまり意味は無い、受け止めて対応するしかない、というあきらめのような気持ちが強かったのかもしれません。ただ、「闘病」という単語については別の意味で違和感がありました。

 がんを告げられた当初、私はかなりの「戦闘モード」でした。「こんなことには負けられない。絶対に病と闘って勝ち、シャバに生還して一線の新聞記者に戻ってみせる」と鼻息荒く病院に向かいました。のしかかるような不安と不吉な将来展望から目をそらすためのカラ元気だったのかもしれません。26歳という若さもあったのでしょう。

 ところが、治療が始まって感じたのは、闘う相手の分かりにくさでした。がん細胞が引き起こす痛みや息苦しさなどの不具合は、かなり進行してから出てくるものです。私は、がん化した左の精巣が膨れ、両肺に転移していたため運動したときに少し息苦しさも感じましたが、事態の深刻さに比べれば自覚症状は軽いものでした。

 実際のところ、「敵」は何だったのか。それは、抗がん剤の副作用です。

 私が治療を受けた約20年前は、シスプラチンという薬の副作用で四六時中、吐き気が続き、無理に食べてもすべて戻してしまう上に、胃液やら胆汁やらまで吐く有り様でした。食事を詰めた配膳車の音が廊下から響いてくるだけで吐き気を感じるほど、悩まされました。

 倦怠(けんたい)感で起き上がるのがしんどくなり、熱が上がって体はガタガタ震え、髪をはじめとする全身の脱毛を気にし……。抗がん剤治療は半年に及び、2度の再発後も同様の治療を受けましたが、病気と闘っているというより、副作用と闘い、耐えている感覚でした。「闘病って感じじゃないよな」と思ったものです。

 同時に、自分の死やそこへ至る生き方をどう考えるのか、いずれ死ぬ身として今をどう生きれば良いのか、といった大きなテーマと対峙(たいじ)する経験でした。自分の弱さも突きつけられ、がんというのは、安直な闘争心だけで解決するような問題ではないなと実感しました。

 肺の検査で2度目の再発が分かったとき、「紙面で手記を書こう」と心に決めました。病気の体験や患者の心理を隠すことなく公表し、読者の皆さんと共に考える素材を紙面で提供したい、という気持ちでした。

 「生きたい」「負けないぞ」という強い気持ちは大事だと思いましたが、やはり「がんと闘い続ける」というイメージはしっくりきませんでした。結局、手記のタイトルは「がんと闘って」ではなく、「がんと向き合って」としました。本にまとめて出版するときも、その言葉を題に選びました。

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上野創(うえの・はじめ) 1971年生まれ、東京育ち。東京本社映像報道部次長。97年、横浜支局員だった26歳のとき、肺に転移した精巣腫瘍(しゅよう)が判明。手術、抗がん剤治療を受け、2度再発。神奈川版に連載した記事「がんと向き合って」が本となり、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。社会部で教育や災害取材を担当、「がん」「自殺対策」「いのちの授業」などを継続して取材。(上野創)