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 震災から7年経った今、全国の小中高生は「東日本大震災」をどのようにとらえているのか――。朝日新聞の「声」欄が投稿を募ると、「教科書で習いました」「記憶にありません」「共感するのは難しい」といった投稿が多く届きました。知らなかったことを反省したり、真摯(しんし)に向き合ったりする人もいましたが、東北以外で暮らす若い世代の向き合い方の難しさが浮かび上がりました。

 「この震災で家族や友だちを失った人はたくさんいる。その悲しみは私には想像できない。だって私は経験していないから。ただ津波は怖いなとテレビを見ていただけ。震災の本当の怖さなんて私には分からない」

 滋賀県の中学生、小林亜美さん(14)は、こう書き連ねた後、共感とは何かと考えても答えが出ない難しさを吐露しています。

 「私も小学生の時に大切な祖父を突然の病気で失った。とても悲しかったし、心にも穴が開いた。でも被災した方々の悲しみとは意味が違う」

 「私は、相手の気持ちを理解するとか、共感するとか、それは数学の方程式より何倍も難しいものだと考えさせられた」

 滋賀県の中学生、岡本悠平さん(13)も震災発生当時、大きな被害がなかった関西との距離感から生まれる苦しさを書いています。

 「中学生になるまで、いつ震災が起きたかもしらず、今でも当時の状況をよく知りません。今、震災の詳細を知らないことを自分で気づいているのに調べていない。これは僕の心の内に他人事だと思う気持ちがある証しです。他人の不幸を悲しみ、思いやれない自分がいることに気づいたのは、この作文を書いている途中です。僕はそんな自分をなくすために一歩踏み出してみようと思います」

 岡山県の小学生、村上未來さん(11)は、震災は教科書で学んだ記憶があるそうです。「街がゼリーのようにゆれて」という表現が、想像できなかったそうです。

 ただ、離れていても、時が経っても、ある瞬間、気づかされることがあります。

 神奈川県の高校生、渡辺早紀さん(17)は、両親が東京都内に通勤して働いていたため、3月11日は「友だちの家で一晩寝泊まりしました」「一人だったので不安ばかりだった」という。

 しかしこうも書いています。「私には、その日の記憶しかありません。ほんの一瞬で私たち、東北から離れた地では、ほとんどが元通りの生活に戻っていたと思います」と。

 「私たちの記憶は風化しつつあります」と冷静に自分たちを見つめつつ、最近見たテレビ番組を通じて「まだ家族を捜し続けているという男性が出演していました。7年経った今でもまだ続いているのだと気づきました」と感じています。

 滋賀県の中学生、国松佑衣さん(14)は、今年行われた合唱コンクールの際、クラスで選んだ曲が「群青」だったそうです。

 この曲は、原発事故の際、半径20キロ圏内にあり、全国各地で避難生活が続いた南相馬市立小高中学校の生徒たちの言葉をつづり、メロディーを付けたものです。

 震災が起きた時は7歳。「ニュースを深く考えることも理解することもできなかった」と書いていますが、この曲に出会い、「私はやっと被害にあわれた方々の思いに向き合った」といいます。

 ♪「またね」と 手を振るけど 明日も会えるのかな

 こんな歌詞を通じて、また会う約束をしながら会えなくなってしまった同世代が経験した現実に接し、涙があふれたそうです。

 「かわいそうだとしか思っていなかったが、この曲に出会えたことで私の中で何かが変わった」

 震災は、大津波で多くの命や家が失われただけでなく、原発事故も起きました。今も、そんな人たちが、あなたの隣でひっそりと暮らしているかもしれないことを想起させてくれたのは、京都府の中学生、植村輝さん(14)の投稿です。

 震災当時、小学1年生。「わずかな揺れしか感じなかったため、実感がありませんでした。『ドラえもん』の放送がなくなったことに怒りをおぼえていたことが唯一の記憶です」と振り返ります。

 ただ、同じ塾に福島から引っ越してきた友人がいました。

 詳しいことは知らずに「なんで京都に来たの」と尋ねると、「帰る家がなくなったから」「また福島に帰りたい」と返ってきました。小学5年生の時、中学受験のことを尋ねると「福島に帰れるようになったから家族で帰る」と楽しそうに話していたことが印象に残っています。

 「なぜ引っ越しが楽しいのか当時の自分には分からなかったけど、自分が生まれ育った地元に帰れるということはすごくいいことなんだと思いました」

 東京都の高校生、宮島夏穂さん(17)も、宮城県から引っ越してきた同級生との出会いを書いています。

 「初めて会った時、その子には吃音(きつおん)の症状がありました。数カ月経って、その子から吃音の症状は消えました。友人は『私の吃音は東日本大震災によるものなんだ』と話してくれました」

 その意味や深刻さに気づいていなかったそうですが、高校生になってから子どもの野外活動を支援するボランティアを通じて、「子どもが受ける精神的ダメージは大きく、気づきにくく、適切な対応が必要なことを知り、友人の言葉の意味を理解することができました」と書いていました。

 宮島さんは、こういった経験から「私は将来、子どもが受ける精神的ダメージを早期に発見し、癒やしてあげられる人になりたいと思います」と将来の進学先や職業にも結びつけています。

 東京都の中学生、菅野湧己さん(15)は、岩手県陸前高田市で親戚の人が津波で命を落としました。菅野さんが被災地を訪れたのは、震災から2年5カ月後の墓参。直接見てみると「想像を遥かに超える被害の大きさに驚いた」といいます。

 ただ、最も驚いたのは被害の大きさではありませんでした。

 「親戚を含むそこに暮らす人のあたたかさだ。津波で家を流され仮設住宅に住む親戚は、前を向くことの大切さを教えてくれた。市役所で働いていた親戚はこう言った。『助かったのは奇跡の中の奇跡。しかし、失ったものが大きすぎて、死にたいと思ったことが何度もある』。けれども、自分が死んでしまったら津波にのまれた人に申し訳ないと、生きることを決意したそうだ」

 親戚の人は「震災のことを忘れないで欲しい」という言葉が耳に残り、東京に暮らしていても、7年経っても、「私たちは今、被災地のために何ができるのか、何をするのか」自問自答しています。

 こんな若い世代の声に呼応するかのように、被災地である岩手県大船渡市に暮らすPOPSユニット「LAWBLOW」も、実はつらい思いを抱えながら音楽活動をしてきたそうです。

 下記はLAWBLOWの菅原盾さん(MC)と里見和哉さん(Singer)からのメッセージです。

 

 岩手県大船渡市で働きながらメジャーデビューを目指していました。震災直後に書いた曲「家に帰ろう」は、3・11前に当たり前にあったあの日の生活にいつか戻りたい、というメッセージを込めたものです。

 実はこの曲を世に出してよかったのか悩みました。僕らが「帰ろう」って歌うことで、より大きな被害を受けた人たちを傷つけはしないか。日常生活を取り戻す中で、「いつまで震災の歌を歌っているのか」と思われやしないか。実力以上に注目され、世間の震災への関心が薄れゆく中で、僕らに何が残るのか。つい最近までとてもつらかった。

 震災から7年、復興が終わっていない大船渡の風景は一日一日変わります。若い人たちにその様子を見に来て欲しいし、こういう機会にネット検索で関心を持ってくれたらいいと思う。

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 朝日新聞の投稿欄「声」では投稿を募集しています。投稿はメール(tokyo-koe@asahi.comメールする)で550字以内。原則実名です。住所、氏名、年齢、性別、職業、電話番号を明記してください。(岩崎賢一)