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 1984(昭和59)年の第66回大会。「深紅の大優勝旗を持ち帰る」と臨んだ箕島には早すぎる夏の終わりだった。初戦の相手は「木内マジック」と呼ばれる采配で有名な木内幸男監督率いる取手二(茨城)。序盤は箕島のペース。相手投手の暴投などで2点を先取する。しかし、その後はバント失敗などミスが続き好機を逃してしまう。七回裏、中押しの1点が入り勝利をたぐり寄せたかに思えた。しかし、八回表、異変が起きた。降り出した雨とともに流れは取手二に傾き、この回5失点。勝利はするりとこぼれ落ちた。

 3点リードしていたはずが、気づけば5点を奪われ逆転されていた。魔の八回表。どよめく甲子園に箕島の選手たちはのみ込まれてしまった。

 この年の箕島は、後にプロに進んだ島田章弘(元阪神など)、杉本正志(元広島など)の二枚看板を中心に投打に厚みのあるチームで、1979年以来の甲子園優勝へ、周囲の期待も高かった。尾藤公監督も試合の数日前、4番で一塁手の勘佐寿人(51)=湯浅町=が土産を買っているのを見ると、「土産なんかいらん。(優勝の)メダルでいいやろ」と冗談ぽく言っていたほどだった。

 試合は箕島ペースで始まった。初回、相手投手の立ち上がりが不安定な間に1点を先取。二回裏にも暴投や死球などを絡めて1点を追加した。しかし、この回はバントミスや1死満塁で併殺に打ち取られるなど、好機がありながら大量得点につなげられなかった。

 その後も再びバントミスがあったり、無死で走者を出しながら得点できなかったりとかみ合わない。ベンチで試合を見守っていた西川秀俊(51)=海南市=は、「尾藤監督の顔から『スマイル』が消えた。試合中、怖くて監督のそばには座れなかった」。

 箕島が七回に3点目を入れた直後の八回表、突如雨が降り出す。この雨が流れを変えた。ぬかるんだグラウンドで守備が乱れ、適時打で1点を奪われると、せきを切ったように一気に同点に追いつかれた。勢いづく相手側スタンド。マウンドに集まった箕島の選手たちには笑顔がなく、言葉を交わしても会話にならなかった。

 「自分が自分でないような感じだった」。一塁を守っていた勘佐は周囲のメンバーを見て思った。試合の主導権を奪われ、球場の雰囲気に圧倒された。雨の中、島田投手の制球も次第に乱れた。杉本投手につないだが流れは変わらず、2点を奪われ、試合をひっくり返された。

 2点を追う九回裏、2死一塁。次打者席にいた勘佐は「回さないでくれ」と願っていた。「普段なら自分が打たなければと思える。でもそのときは、打席に立っても打てないと感じた」。八回表、相手の雰囲気にのまれた時点で、負けを覚悟した。「打席に入るのが怖い」。野球人生で初めての経験だった。結局、3番打者が右飛に倒れ、試合は終わった。

 取手二はそのまま勝ち進み、決勝では桑田真澄、清原和博を擁するPL学園(大阪)を破って初優勝した。=敬称略(金子和史)

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