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(1985年決勝、PL学園4―3宇部商)

 「KKコンビ」の高校野球は、フィナーレを迎えようとしていた。

 桑田真澄は三塁ベンチ前でキャッチボールをし、延長に備えていた。清原和博はネクストバッターズサークルにいた。

 打席には、PL学園(大阪)の3番を打つ主将の松山秀明。1985年夏の第67回大会決勝、宇部商(山口)―PL学園は、3―3で九回裏に入っていた。

 2死から2番の安本政弘の打球が、二塁手の後方に落ちた。松山への6球目、安本が二塁盗塁を決める。

 「延長に入ったら、もうもたないな」と桑田は思っていた。「松山、頼むから打ってくれ」

 一打サヨナラのピンチを迎えた宇部商がタイムをかける。松山が滑り止めをつけるために清原に近づくと、こう言われた。

 「マツ、決めてくれ」

 3年連続の決勝進出だった。83年は1年生4番の清原が右翼ラッキーゾーンに甲子園初本塁打を打ち込み、背番号11の桑田が七回途中まで粘投した。3―0で横浜商(神奈川)を下して優勝し、「KK時代」の幕開けを告げた。

 84年は延長十回、取手二(茨城)に4点を奪われて準優勝。2年生になった桑田が右手中指のマメをつぶして力尽きた。同年春も準優勝。85年の春は準決勝敗退。「けっこう頑張ったと思うんですよ。だけど、学校に帰ってもシーンとしている」と桑田が回想する。だから「最後の夏は絶対に優勝したる」と松山は心に誓った。「そうでないと、ぼくたちの3年間の意味がなくなってしまう」

 最後の夏も桑田は苦しんだ。4連投で肩が上がらず、生命線の制球がばらつく。「桑田、頑張ってくれ。おれ、絶対に打ったるから」。清原が励ました。

 その言葉通り、四回と六回に同点本塁打。

 「甲子園は清原のためにあるのか!」。この試合2本目の一発が左中間席中段に突き刺さると、テレビで実況していた朝日放送の植草貞夫アナウンサーが言った。

 「あの実況、素晴らしいですよね。その通りだ」。桑田が懐かしむ。

 「キヨは最初から最後まで化け物やった」とは松山の弁だ。「入学直後にマシン打撃を10本したら8本が柵越え。そんなやつ、ほかにいます? どんなに努力してもかなわんヤツが世の中にはおると、ぼくらは15歳にして知らされた」

 それぞれの特徴、役割を意識し、努力する日々が始まった。「身近にいるキヨを観察し、どうしたら彼を抑えられるか考える。それができれば、どんな打者でも怖くない」と桑田は思った。導き出した答えが制球力を磨くことだった。

 その桑田について、松山は「努力がホンマすごかった。そして、試合ごとに成長していった」と言う。この試合もフラフラの中、八、九回は3人ずつで終えている。中でも、八回の投球は圧巻だ。宇部商の4番・藤井進、5番・田上昌徳を連続して見逃し三振に切った。

 そうして迎えた九回裏。「自分で決める。キヨに回そうなんて、みじんも考えんかった」という松山が、フルカウントから低めの直球をとらえた。二塁手の頭上を抜けていく白球の弾道を、「今でもはっきりと覚えている」と松山と桑田は口をそろえる。

 安本が滑り込んだ本塁ベースのすぐ脇で、右手にバットを持った清原が両腕を突き上げる。ベンチにいったん戻ってグラブを置いた桑田が、その歓喜の輪に、最後に加わった。

 勝って当然という重圧の中で成し遂げた2年ぶりの全国制覇。校歌斉唱では、ほとんどの選手が号泣といっていい状態だった。必死にこらえているように見える桑田の表情が大きく崩れたのは、アルプス席にあいさつした後だ。

 「キヨ、ありがとう」。互いの健闘をたたえ合うかのように、「KKコンビ」は抱擁を交わした。

 清原の甲子園通算13本塁打は史上最多、桑田の20勝は戦後最多記録として、今も輝いている。(編集委員・安藤嘉浩

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 くわた・ますみ 1968年4月1日、大阪府八尾市出身。PL学園で5季連続甲子園に出場し、歴代2位の通算20勝(3敗)。巨人にドラフト1位で入団し、通算173勝。大リーグでも19試合に登板した。スポーツ報知評論家。

 まつやま・ひであき 1967年4月18日、和歌山県出身。PL学園3年時は主将として夏の甲子園で優勝。青学大を経てドラフト5位で90年、オリックス入団。現在はソフトバンク2軍コーチ。

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