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(1973年2回戦 作新学院0―1銚子商)

 午後1時24分に始まった作新学院―銚子商(千葉)戦のスコアボードには、「0」が連なっていた。

 1973年8月16日木曜日。5万6千人で埋まった甲子園は、八回をすぎて、雨が降り出していた。

拡大する写真・図版「怪物」と呼ばれた江川卓の投球は、多くのひとに全国制覇を期待させた

 選手が主役なら、時間の経過とともに強まっていった雨は、名脇役として試合を動かしていく。雨が「怪物」と呼ばれた江川卓を翻弄(ほんろう)しただけではなかった。

 江川は第55回大会の目玉だった。

 春の選抜大会で4強入り。球が浮き上がるような豪速球で60個の三振を奪い、大会記録を塗り替えた。夏の栃木大会は5試合を被安打2で勝ち上がった。3試合はノーヒットノーランだ。夏の甲子園に初めて出場する怪物の投球への注目度は普通ではなかった。

 周囲の期待とは裏腹に、捕手の亀岡(旧姓小倉)偉民は開幕前から不安を募らせていた。「甲子園入りしたときからボールが(高めに)浮き気味だった。春から夏にかけて基礎練習ができず、徹底的に鍛えることができないまま、夏を迎えていた」

 選抜大会以降、全国から招待試合に呼ばれた。九州、北陸……。週末、遠征に出ると、月曜日の授業に間に合わせるために夜行列車で栃木に戻ることもあった。

拡大する写真・図版作新学院―銚子商 十二回裏銚子商1死満塁、江川の投球は高めに外れ、銚子商がサヨナラ勝ち。躍り上がって喜ぶ打者は長谷川。捕手小倉(現姓亀岡)、球審永野

 もうひとつ、チームに影を落としていたのが、江川を擁するがゆえの周囲の過熱ぶりだった。

 どんな試合でも、メディアは打った野手ではなく、江川を囲んだ。チームメートは取材攻勢にさらされる江川と距離を置き、仲間を気遣う江川は孤立するようになっていた。

 栃木大会のチーム打率は2割4厘。「打っても評価されないから、みんなおかしくなっていった」。江川と野手の間に立っていた亀岡は振り返る。

拡大する写真・図版作新学院で江川とバッテリーを組んでいた亀岡偉民さん

 落ち着かないまま迎えた全国大会で、柳川商(福岡)との1回戦は延長十五回の末に2―1のサヨナラ勝ち。2回戦の銚子商戦について、亀岡には「最初から厳しいと思っていた」という予感があった。江川も「あの試合が限界だった。僕も野手も本当に疲れていたから」とのちに述懐している。

 銚子商戦の劇的なサヨナラ負けの前に、江川の心を激しく揺さぶるピンチがあった。

 十回裏、雨は激しくなっていた。二つの四球などで2死一、二塁。許した右前安打を右翼手がこぼす。江川は「終わった」と思った。

 捕手の亀岡はいちかばちかのプレーに出た。走者の本塁ベース到達を遅らせるために、ライン際に本塁ベースから三塁側へ3歩離れた。走者は足元に突っ込みタッチアウト。走者に雨で本塁が見えなかったのかは分からない。亀岡が思ったのは「これで勝てる。流れは完全にこちらにある」。一方、江川の心境は「えっ、まだやらなきゃいけないの」だった。

拡大する写真・図版十回裏2死一、二塁で銚子商は長谷川が右前打を放ち、二塁走者の多部田は本塁に突っ込んだが、作新学院の捕手小倉の好ブロックでアウトにした。多部田は額から出血した

 十二回表、作新学院の攻撃は無得点。どしゃ降りの雨のなか、大会本部はこの回での打ち切りを検討していた。

 亀岡自身は試合途中から、雨で滑って、江川に返球できなくなっていたという。滑り止めを借りに、何度もマウンドにいった。「(力を入れて投げる)本格派だから、もともと雨に弱いのに、あの状態で投げていたのは奇跡的だと思う」

 十二回裏、銚子商の攻撃は1死満塁でフルカウント。マウンドに集めた野手に、江川は「真っすぐを力いっぱい投げていいか」と尋ねている。「お前の好きなボールを投げろ。お前がいたから、おれたちここまで来られたんだろ」。一塁手の鈴木秀男から返ってきた言葉だ。

 「あの瞬間、勝とうというよりも、全員がこの野球を最後までやろうという気持ちだった。それまではいがみあいとか、いろいろあった。最後の1球でチームがまとまったというのはその通りかもしれない」

 その169球目を受けた亀岡がいまだに感じるのは、悔しさではなく、すがすがしさだ。

 雨の中、怪物と作新学院は散った。

 押し出しの四球になった直球は雨で滑っているように見えるが、江川はこう振り返っている。

 「その時は滑ったという感覚はなかった。あの球は高校時代で最高の一球だった」(潮智史

     ◇

 かめおか・よしたみ 旧姓小倉。1955年、栃木県国分寺町(現・下野市)生まれ。作新学院で江川卓とバッテリーを組み、早大、熊谷組でもプレー。衆議院議員秘書を経て、05年に衆院議員初当選。17年に4選。

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