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 51回大会(1969年)決勝は、100回を迎える大会史のなかでも屈指の名勝負だ。主役の1人が、松山商のエース井上明。三沢(青森)の太田幸司と投げ合い、0―0のまま延長十八回で引き分けた。井上は明大を卒業後、朝日新聞社でスポーツ記者を務めた。

 「僕と太田投手よりも数段レベルの高い2人の投手戦を甲子園の記者席で堪能した」――自身の激闘から37年後の2006年夏、88回大会決勝は、駒大苫小牧(南北海道)の田中将大と、早稲田実(西東京)の斎藤佑樹による投げ合いで引き分け再試合となった。井上はその日の記事をこう書き出した。

 井上は我々にとって記者の先輩にあたる。華やかな球歴とは裏腹に、温厚で謙虚な人柄だ。そんな井上が自賛するプレーが、4時間16分の戦いのなかにある。

 「この試合のなかで、自分で、『あ、よくやったな』と思うのがこのプレーなの」

 それは延長十五回裏、1死満塁とサヨナラ負けの大ピンチを背負っていた場面で出た。相手9番にフルカウントからの6球目を打ち返された。体の右側を痛烈な打球が襲う。井上はこの打球に飛びついた。かろうじてグラブに当て、打球は遊撃手樋野和寿の前へ。本塁へ返球され、ぎりぎりでサヨナラの生還を阻んだ。

 投手による横っ飛びなど、なかなか見られるプレーではない。まして、右投手は投げ終えた後、体が一塁側に流れるのが一般的だ。この打球が襲ったのは、その逆だ。左翼手の久保田俊郎は、後にこう話している。「井上というやつはすごいやつだ。あのゴロには飛びつけないですよ。大抵の投手は飛びつこうとせんでしょう」

 離れ業には、裏付けがある。「投手は5人目の内野」「自分の近くにきたら自分でアウトにする。それが近道」。井上の持論だった。そして、猛練習で守備を鍛えあげるのが、松山商の流儀だ。「緊張状態のなかでも、あの打球に動けた。体に染みついていること、ボールに対する意欲、そういうものを出せたのがあのプレーだった」。体が一塁側に流れないフォームも身につけていた。

 松山商は18回目の出場で当時、すでに全国制覇が3度。対する三沢は太田こそ知られた存在だったが、2回目の全国選手権だった。「我々が三沢に負けるということは許されない。そういう気持ちがすごくあった」と井上は明かす。

 その三沢に土壇場に追い込まれていたのが十五回だ。中飛で3アウト目をとり、ベンチに戻った井上は泣く。「野球をやっていて怖いと思ったの初めてだったの。なんとか抑えて、一色(俊作)監督が『よおーくやったよ』と迎えてくれて、緊張がぐわっと緩んで、もう涙がでた」。それほどの緊張状態だった。

 松山商は続く十六回の満塁のピンチも耐え、太田も譲らぬまま十八回、36個目のゼロがスコアボードに刻まれた。ともに1人で投げ抜き、投球数は井上が232、太田が262だった。

 グラブに当たった打球が遊撃手の目の前へ転がった。三塁走者のスタートが遅れた……幸運は重なったが、少なくともあのとき、井上がダイビングキャッチを試みていなければ、この勝負は十五回で決着していた可能性が高い。

 翌日の再試合は選手層に勝る松山商が、左腕中村哲の好投もあり4―2で制した。井上は1回3分の1を投げたのみで、試合終了の瞬間を右翼で迎えた。「2日やって、やぁっと終わった。うれし涙も全く出なかったし、あぁ、やっとこれで終わったな、と」

 その後、記者として高校野球に携わる道を選んだ。「これだけ高校野球を見られたの、やっぱりすごい幸せだったよね。高校3年生の時にああいう試合をして、その後も高校野球をずっと見られている。そんな人生、なかなかないよね」。高校野球の引力圏から逃れられなかった36年の記者生活を、そんな風に振り返った。

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 いのうえ・あきら 1951年、愛媛県出身。松山商から進んだ明大では主将。75年、朝日新聞社に入社。大阪本社運動部次長などを務め、2011年に定年。

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