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(1995年3回戦 敦賀気比2―1柳川)

 23年が経った今も、内藤剛志はあの日の朝の情景を鮮明に覚えていた。

 「朝一番で誰もいない甲子園でのウォーミングアップ。静かなスタンドを見ながら、今日で高校野球生活は終わりかな、なんてしみじみと考えていた。でも開場と同時にアルプスに応援団が入ってきて、やらないかんって。この試合負けるわけにはいかないんだって」

 1995年8月18日の第1試合。敦賀気比は優勝候補の柳川との3回戦に臨んだ。エースの内藤はある特別な思いを抱えていた。3年前の「リベンジ」だ。

 中学3年のボーイズリーグ全国大会初戦。場所は大阪の日生球場。その日も朝の試合だった。内藤は相手チームの花田真人と投げ合った。「速いピッチャーだなという印象だった」。1―4で敗れ、中学最後の夏が終わった。

 それから3年。花田との交流はなかった。ただ甲子園が始まり、ニュースで柳川のエースの名前を耳にして記憶がよみがえった。また同じ男に敗れて最後の夏を終えるわけにはいかない。「やり返してやろうという気持ちだった」

 午前8時半プレーボール。マウンドに上がった内藤の調子は悪かった。「絶対負けちゃいかんという気持ちが気負いに変わった」。初回、思わぬアクシデントが襲う。右足がつったのだ。五回に同点に追いつかれたタイミングでさらに悪化。何度も屈伸したが痛みは消えなかった。得意のカーブは思うように曲がらず、九回まで一つも三振を奪えなかった。それでも低めの制球を心がけて内野ゴロの山を築いた。

 対する花田は140キロ台の直球とスライダーを効果的に交え、クールな表情で淡々と投げ続けた。「マウンドの立ち姿がよかったし、球質、ストレート、スライダー……。中3の時よりもはるかにレベルアップしていた」と内藤。緊迫した投手戦となった。

 この試合、内藤自らのバットでけりをつけるチャンスがあった。九回2死満塁で打席へ。「昔、想像していた最高の展開。サヨナラ満塁ホームランをイメージした」。エース対エース。野球漫画のような展開に嫌でも力が入った。結果は直球に振り負けてどん詰まりの遊飛。「自分の甘い考えで延長に入ってしまった。絶対に1点もやれないと思った」。内藤のギアが上がる。十回に初めて三振を奪うと、十二回には3者連続三振を奪った。

 炎天下のマウンド。もちろん疲れはあった。味方の攻撃中は氷水で頭を冷やし、キャッチボールもしなかった。「点を取れなくても気持ちが変わらないように攻撃は見なかった。十八回まで投げる覚悟だった」。無心で右腕を振った。

 そして十五回、決着の時を迎える。無死一、二塁から嶋村誠司が右前安打。柳川の好守で二塁走者が本塁タッチアウトになったが、好機は続く。そして1死一、三塁。飯田雅司が右犠飛を放った。選手たちは一斉にサヨナラの走者に駆け寄った。ただ内藤の足は動かなかった。「力が残っていなくて何とか付いていった。勝った。十五回まで投げた。そして花田に投げ勝った。三つの喜びがこみ上げてきた」

 試合後のあいさつで花田に声をかけられた。「がんばれよ」「おー」。短い言葉。でも互いに通じ合った気がした。内藤213球、花田193球。球史に残る2人の熱投だった。

 実はライバル物語には続きがある。3度目の対戦があったのだ。甲子園の激闘から4年後。内藤が進んだ駒沢大と、花田の中央大が大学4年秋、東都大学リーグで対戦した。先発した花田は十回途中までマウンドを守った。そして内藤は九回途中から救援した。少しの間だけ神宮球場のスコアボードに記された「内藤」「花田」の並び。内藤の後輩が言った。「どこかで見た光景ですね」。試合は駒沢大が制した。

 その後、花田はヤクルトで10年間活躍した。一方、内藤は社会人で野球を続けた。「もう1回、花田と対戦したかった」。プロへは進めず、願いはかなわなかった。ただ内藤の野球人生を振り返る上で花田は切っても切れない特別な存在。あの夏の投げ合いは脳裏にしっかりと刻まれている。

     ◇

 ないとう・たけし 1977年、福井県鯖江市生まれ。敦賀気比で94、95両年の夏に投手として甲子園に出場。95年は4強に進出した。卒業後は駒沢大、JR東海で野球を続けた。現JR東海コーチ。

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