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 「都立の星」。記録的な冷夏だった1980年の夏、第62回大会に東京都立高校として初めて甲子園に出場した国立(西東京)には、全国から熱い視線が注がれた。

 国立の主将名取光広が引き当てたのは、大会第1日の第3試合。1回戦の相手は箕島(和歌山)だった。エースの市川武史は「まさか。よりによって箕島を引くか。他の学校なら勝てたかもしれないのに……」。尾藤公監督が率いる箕島は、前年に史上3校目、公立校として初の甲子園春夏連覇を果たした。

 身長168センチ、制球力を持ち味とし、変化球主体で投げ込む技巧派右腕の市川は、西東京大会8試合81イニングを一人で投げきった。甲子園でも強豪相手に投手戦となった。三回表、市川は2死二塁で右前安打を許したが、右翼手名取の好返球で本塁タッチアウト。四回まで両校無得点で進み、市川とバッテリーを組む捕手の川幡卓也は「いけるな」と手応えを感じていた。

 五回、市川は先頭を二塁打で出すが、トリックプレーの牽制(けんせい)球で刺した。川幡は「練習していたけど、一度も決まったことはなかった」。しかし、後続に2安打などで2点先制を許す。続く六回には、4番宮端卓司に左翼ポール際への本塁打を浴びる。右打者の内角へ沈む変化球。市川は「絶対的な自信があった球だった」。名取は「市川が公式戦でホームランを打たれたのは最初で最後だったのではないか」と振り返る。

 0―3。じわじわと引き離されていく都立の星。一方、箕島の主将で先発したエース左腕の宮本貴美久は、マウンドで戸惑っていた。序盤を終えたところで、球審から投球フォームについて注意された。「どうやって投げたらいいのか分からなくなった。国立打線に向かって投げるというより、球審に対して『これでいいんですか』という感覚だった」

 全員で優勝旗を返すのを最低限の目標とした箕島。前年は左翼手として優勝メンバーだった宮本を先頭に入場行進した開会式は、大きな拍手で観客たちに迎えられた。だが、その数時間後、「天国から地獄に変わった」と宮本。甲子園は、進学校の国立への声援がほとんど。バットに球が当たればファウルでも大歓声。「守るのが怖かった。球場全体が敵に思えた」

 国立の選手たちは開会式後、甲子園から近い東東京代表・早稲田実の宿舎を借りて試合に備えた。早稲田実の1年生右腕、背番号11の荒木大輔が「大ちゃんフィーバー」を巻き起こすのは、3日後の北陽(大阪、現関大北陽)との初戦を突破してからのことだ。

 「普通に投げれば打たれない」と思いつつ、制球に苦しむ宮本に対し、国立は五回まで4番名取の2安打のみ。西東京大会でチーム打率2割4分3厘の打線は、手が出なかった。

 六回裏、国立は1死から連続四球を選んで一、二塁の好機。4番名取が左打席へ。自らの守備のまずさが失点を招いたこともあり、名取には挽回(ばんかい)の機会だった。対する宮本も、勝負どころだと思い、「いくらフォームを注意されてもいいと開き直った」。名取、川幡と2者連続で3球三振に仕留めた。名取は「一番厳しい球。すごかった」

 打線の援護を待つ市川だったが、九回にも2失点。国立の甲子園は、2時間15分で試合終了のサイレンが鳴り響いた。「ああ、終わりなんだな」。背番号1に涙はなかった。

     ◇

 市川武史さんと川幡卓也さんは国立を卒業後、1浪して東大へ進学した。バッテリーはそろって野球部に入り、市川さんは東京六大学リーグでは通算7勝を挙げた。電通に就職した川幡さんは、「周りにあおられるようにして東大を目指した。でもそのおかげで野球を続けられた」と話す。

 主将の名取光広さんは、箕島戦の翌日朝刊で「東京に帰って好きな寄席に通いたい」と報じられた。一橋大を卒業し、朝日新聞記者に。高校野球取材に携わる後輩記者には、「実は、受験のため『代ゼミ』に通いたいと言った」と舞台裏を明かしつつ、正確な報道の重要さを説いてきた。

 箕島は国立を破り、準々決勝まで勝ち進んだ。エースだった宮本貴美久さんは、近大を経て、近大工学部で監督を務めた。2013年には高校教諭に転身し、近大福山(広島)の監督として指揮を執る。「将来の指導者になってくれる選手を育てたい」

 国立を率いた市川忠男監督は昨年7月、84歳で鬼籍に入った。下級生の頃から猛練習を課した恩師を「世界で最も怖い人」と評するエースの市川さんは、市川監督が亡くなる数カ月前にも野球談義を交わした。「監督はチームをどう強くするか、目の前の試合を勝つことばかり考えていた」

 市川さんはいま、キヤノンで技術者を務める。「いい製品を作るためには目標設定が重要。目標がしっかりすれば、厳しい環境でも踏ん張れる。高校野球を通じて、『やらなければ勝てない』ということを教わった」と、恩師の姿を思い浮かべながら話した。(辻健治)

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