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第40回決勝(1958年) 徳島商0―7柳井

 「変だな」。第40回大会(1958年)の決勝戦。二回裏1死満塁で打席に立った柳井の9番打者、棟居英二は思った。

 マウンドには徳島商(徳島)のエース・板東英二がいた。球威のある直球で三振の山を築き、大会のヒーローになっていた。準々決勝だったか。宿舎のテレビでその投球を見た柳井の一塁手、岡村哲夫(現在は魚本に改姓)は「こんな球を打てるのか」とうなった。

 この大会で計83奪三振。いまも破られていない一大会最多奪三振の記録を打ち立てた剛腕はしかし、決勝ではふるわなかった。直球にスピードがなく、厳しいコースもついてこない。棟居は押し出しの四球を選んで柳井が先制。適時打も浴び、板東は3点を失った。

 この夏、板東には6試合目の甲子園のマウンドだった。延長18回で引き分け再試合になった準々決勝を含め、一人で投げ抜いてきた。その疲れが蓄積したのか、この試合の板東は「へたっていた」(棟居)。

 柳井打線が板東の攻略に成功した理由はほかにもある。

 決勝までの板東の投球を観察していた柳井の監督、福中満(当時)は考えた。直球とは別に落ちる球もある。それを狙おう。

 「打席の一番前に立て」。選手たちに指示を与えた。落ちる球が落ちきる前にミートする。だが、直球で押してこられるとその作戦も通じない。決勝までの練習では打撃投手を普段よりも3、4歩手前から投げさせて、打者の目を速球に慣れさせた。

 ボール球は見極めて、追い込まれたらファウルで粘る。有利なカウントで甘い球を打つ。選手たちは福中の指示通りに、打席で振る舞った。

 柳井は主将でエースの友歳克彦の制球力と守備の堅さで勝ち上がった。決勝で板東を打ち崩せると考える人は少なかった。

 四回にも柳井が2連打で1点を追加。下馬評は覆されていった。

 六回、先頭打者で打席に向かう岡村は思った。「あの板東が、投げる球がないと困っている」。安打で出塁すると犠打と安打で1死一、三塁。このピンチはどうにか抑えた板東だったが、八回には1四球と3安打で3失点。試合は7―0で幕を閉じた。

 柳井の優勝には、打線とは別の立役者もいた。投手の友歳だ。二回、先頭打者に三塁打を浴びた。このピンチになぜか、友歳はマウンド上で眼鏡を拭いた。その隙に、三塁走者が本塁を突くと冷静に捕手に送球してタッチアウト。

 走者がいても眼鏡を拭くのは友歳の癖だった。だが「いつも走者は見ていた」と岡村は振り返る。「あれも一つの手だったのかな」

 スーパースターが相手でも、臆することなく自分たちのやるべきことをしっかりとやる。友歳に代表される、どこか大人びた雰囲気の柳井が山口に初めて深紅の優勝旗を持ち帰った。

 77歳になった岡村は当時の写真を縮小し、お守りとして今でも持ち歩く。「優勝は誇り。優勝したから今の自分がある」。今年の100回大会で、岡村や棟居たちが手にした優勝旗は新調される。だが、その思い出はずっと変わらないままだ。=敬称略(藤野隆晃)

第40回大会 どんな夏

 40回目を記念したこの大会には、各都道府県と沖縄から1校ずつが参加した。当時、米国の施政権下にあった沖縄から代表チームが参加するのは、この大会が初めてだった。柳井は1回戦で札幌商(北海道)を破ると、2回戦から準決勝までの4試合をすべて1点差で競り勝った。優勝した柳井は3日後、オープンカーを先頭に地元の山口県柳井市内で優勝パレード。街中から祝福の言葉を浴びた。

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