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 高齢化が進むドイツで、旧東独を再現した老人ホームが注目されている。モノや行事で記憶を刺激し、認知症の治療に生かそうという試みだ。寡黙だった入居者が突然過去を語り始め、周囲を驚かせている。(ドレスデン=高野弦)

 旧東独第3の都市ドレスデン。約250人が入居する老人ホーム「アレクサ」は、バロック様式の宮殿や大聖堂が立ち並ぶ中心部からさほど遠くない。約80人が認知症患者だ。

 玄関近くのポスターに描かれているのは往年の国産乗用車「トラバント」。1階の広間には施設長のグンター・ウォルフラムさん(48)がネットオークションで入手したスクーター「トロル」。今では博物館でしか見られない希少品だ。

旧東ドイツの新聞、日用品…

 「1960年代部屋」に案内された。ダイヤル式の電話機に石炭ストーブ。新聞の日付は1968年8月24日。

 「これはねえ、子ども用の弁当箱。大きいのは大人用」。スーパーの棚に見立てた場所に置かれた日用品に見入っていると、食事を終えたクルンペルトさん(92)が説明してくれた。

 「私には4人の子どもがいてね、ずっと後に5人目ができた。夫は戦争から帰らず、私ひとりで育て上げた。長男が妹たちの面倒をよく見てくれて……」

 5分ほどの間に同じ話を繰り返すこと5回。ウォルフラムさんが耳打ちしてくれた。「これでもずっと良くなったんです。以前はほとんど話さず部屋にこもりきりだったんですから」

寡黙な入居者、会話始める

 ウォルフラムさんが「旧東独」の効用に気付いたのは2年半前だった。

 映画上映会を開くことになり、映画の年代に合わせて購入したトロルを展示した。すると、映画そっちのけで男性たちがトロルを取り囲んだ。

 「ここにガールフレンドを乗せてデートに行ったんだ」「エンジンをかける時の音がうるさくてなあ」

 普段は寡黙で、映画の内容も理解していないように見える彼らが突然、脈絡のある会話を始めたのだ。

 「奇跡が起きたと思いました」とウォルフラムさん。3カ月後、売店だった場所を「60年代部屋」に作り替えた。昔の調理具を用意したら、自分でジャガイモを切って料理を始める老人が現れた。トイレの案内板を60年代のものにしたら、自分でトイレに行き始めた。

 昨年は「70年代部屋」も作った。壁紙には、当時流行した黄色やオレンジ色をふんだんに使い、当時のヒットソングのレコードもそろえた。「仕事で成功したり、結婚して子どもを作ったり。人生の最も重要な時期をいつ過ごしたかによって反応する部屋が違います」と、介護職員のジルバナ・ティララさん。

行事も再現、政治はタブー

 旧東独時代の行事も再現される。かつて月に1回、働く女性のための休日「家事の日」があったのに合わせ、旧東独製のタオルや靴を用意して洗濯や掃除のまねごとをする。

 ただし、かつての政治体制を彷彿(ほうふつ)とさせる行事や品々はタブーだ。

 共産主義思想に忠実な学生らを表彰する行事は再現しない。旧東独の国旗や指導者の写真も飾らない。「こうした思い出を大切に考える人がいる一方、不愉快に思う人々がいる。後者の場合、症状が悪化する可能性だって否定できません」とウォルフラムさん。

 89年のベルリンの壁崩壊を経験したウォルフラムさん自身、旧東独に良い思い出はない。抑圧対象だったクリスチャンの家系で、学校では何かと差別された。独裁政党だった社会主義統一党の党員でなければ大学進学も拒まれた。

 「もし政治的記憶を呼び起こし、施設内で議論が始まったら、とりわけ共産主義の賛同者だった人々に何と答えてよいのか分からない。政治的に何が正しいのかを教えるのは私たちの仕事ではありません」

 施設の評判は全国に広がり、他の施設の関係者や研究者が見学に訪れている。

「古き良き時代」脳を活性化

 カール・グスタフ・カルス大学病院のマルクース・ドニックス医師(40)の話

 認知症患者の施設に使い慣れた家具を置くなどの例はあるが、この老人ホームのように旧東独をまるごと再現した例は聞いたことがない。

 親しみ慣れたモノを見せることで脳の働きが活発になることは、認知症の有無にかかわらず、医学的に証明されている。

 我々もMRIを使って実験した。症状のある人に特徴的なのは、物事を文脈の中で認識する部位が活性化しないということだ。

 例えば、有名人の写真を見せると、親しみの感情はわくけれど、肩書は思い出せない。歯ブラシを見せてもそれが何か論理的には分からない。ただ、使い慣れた歯ブラシなら、脳の別の部分が活性化し、自然と歯をみがく行動に出る。それまで自分でトイレに行けなかった人が、自分で行き始めることも、十分にありうることだ。

 旧東独は電話すら普及していなかったが、人間関係は非常に濃密だった。入居者の中には、モノを通じて「古き良き時代」を思い出している人もいるのではないだろうか。