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 高校野球史上初の春夏連続甲子園優勝を成し遂げた、1962年の作新学院。その後、エース松坂大輔を擁した98年の横浜(神奈川)をはじめ、中京商(愛知)、箕島(和歌山)、PL学園(大阪)、興南(沖縄)、大阪桐蔭の6校が記録しているが、作新だけの特徴がある。春の決勝で日大三(東京)を完封した大黒柱の八木沢荘六(3年)が、夏の甲子園では一度もマウンドにあがることがないまま、全国制覇を達成しているのだ。大きな危機を乗り越えて、再び頂点に立つことができた原動力を探った。

 夏の1回戦で作新学院と顔を合わせた気仙沼(宮城)に、「日本高野連からのわび状」が残されていた。試合日程の変更に際して迷惑をかけたことをおわびする、と書かれている。当初の日程は大会第2日。それが前日になって第4日に変わった。天候などの理由以外で甲子園の試合日程が変わるのは異例だ。

 理由は八木沢が赤痢と診断されたことだった。

 八木沢は大阪入りしたころから下痢などで体調を崩し、練習しても汗が出ない状況だった。だが本人は徐々に快方に向かっていると感じ、8月10日の開会式で入場行進。その後、試合前日の練習を行うグラウンドから急きょ、宿舎に呼び戻され、赤痢であることを告げられた。「目の前が真っ暗になった」。そのまま病院に隔離された。

 練習を終えて宿舎に戻ってきたほかの選手たちは、もっと驚いた。マスク姿の保健所の職員が噴霧器を使って消毒作業をしていた。

 選手たちは全員検査を受け、さらなる感染者が出た場合は出場できなくなると聞かされた。二塁手の佐山和夫(3年)は「みんな荷物をまとめて帰る用意をしていた」と振り返る。

 検査の結果、ほかのメンバーは陰性と判断されて最悪の事態は避けられたものの、エース不在の危機は変わらない。だが作新ナインはここで逆に奮起した。

 一塁手の福富昭次(3年)は「八木沢が投げるときは春の実績から、点を取られないと安心してしまう。そういう甘い考えがあったかもしれない」。チームの団結力が高まった。

 最も気合が入ったのは、八木沢に続く2番手の投手だった加藤斌(たけし)(3年)だったかもしれない。

 180センチを超える長身だったが、上手投げだったときは球速も制球もいまひとつで、内野手への転向を指示されたときもあったという。しかし、春の甲子園で優勝経験のある社会人の投手から指導を受けて、横手投げに。グラウンドに砂山をつくって、連日、そこを目掛けてボールを投げ込み、力をつけた。

 八木沢へのライバル心は、言葉や態度に出さなくてもみんな分かっていた。八木沢が水道山へ走りに行けば、加藤も鹿沼街道の坂道へ。八木沢も「私を抜こう、一番を取ろうというのを感じた。切磋琢磨の言葉通りだった」。ブルペンで一緒になると、相手より先にやめたくなくて延々と投げ続ける。1日500球を投げた日もあった。暗くなってボールが見えなくなるまで、両者の意地の張り合いが続いた。

 佐山は2人を「八木沢は制球良くフォームが奇麗。ボールも素直だったので、練習では結構打った。加藤は腕が長くて非常にボールが見づらく、打ちづらかった」と評する。

 気仙沼戦の先発マウンドに立った加藤は、持ち味のシュートを生かして力投。不運なボークによる1失点はあったが、延長十一回を被安打4で完投。病室で借りたポータブルテレビの小さな画面で試合を見守っていた八木沢は「これなら大丈夫」と確信した。

 加藤は2回戦で慶応(神奈川)を完封。続く準々決勝の岐阜商では、ようやく退院できた八木沢が病院から直接、甲子園に戻ってきた。八回を終えて大量リードを奪った作新は、山本理部長が八木沢に「1回放ってみるか」と声をかけた。だが、八木沢は断った。「今は加藤が投げるのがベストだと思った」。結局、加藤は準決勝の中京商(愛知)、決勝の久留米商(福岡)を連続完封。春の八木沢に並ぶ殊勲だった。

 卒業後に中日に入団した加藤は、早大に進んだ八木沢の寮を訪ねるなど交流が続いた。2年目は31試合に登板(2勝4敗)。プロでの手応えをつかんだシーズンオフの1964年の年末、スポーツカーを購入した。車をみた八木沢は「気をつけて乗れよ」と声をかけた。

 翌年の1月3日夜、クラス会の終わりにこの車でやってきた加藤は、酒に酔っていた福富を家に送ろうと助手席に乗せた。一度は福富の自宅方向に向かったが、ドライブをしようと引き返した。福富は途中で寝てしまったという。目覚めたのは約2週間後、病院だった。加藤が運転した車は、日光街道でカーブを曲がりきれず、ブロック塀に衝突。福富は重傷、加藤は20歳で生涯を閉じていた。福富は「クールで派手なところはなかった。信じられなかった」。

 連覇の栄冠から半世紀以上。加藤のほかにも他界した選手はいるが、今も毎年「春夏会」を開き、交流を深めている。孫のような世代になった現役は、伸び伸びとした攻撃が身上。投手力と堅守で競り勝った自分たちの代とチームカラーは異なるが、指導者との信頼関係の強さは重なるという。(敬称略、学年は当時)(津布楽洋一)

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