万葉の故地として知られる奈良県吉野町の宮滝(みやたき)遺跡。昨年末から今年3月の発掘調査で大型の建物跡がみつかり、飛鳥~奈良時代に何人もの天皇が行幸した離宮だった可能性が高まっています。万葉学者の上野誠・奈良大学教授に、この発見の意義について寄稿してもらいました。

 私は思わず声をあげた。「えっ、こんなに川に近いところから、宮殿の遺構が発掘されたのぉ!」と。先日、発掘を担当した技師から、発掘図面を示された時のことだ。

 持統(じとう)天皇の吉野行幸は三十一回を数え、後の天皇たちも、吉野へ赴いている。行幸には、多くの役人たちも、それに従う。そのなかには、『万葉集』にその名を留める歌人たちもいた。というよりも、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)、山部赤人(やまべのあかひと)らは、行幸の記録者として、吉野を訪れたのではないか、と私は思っている。彼らは、歌によって、吉野の自然を誉(ほ)め讃(たた)え、そんな素晴らしい地に離宮を造った天皇を讃えるのであった。柿本人麻呂は、激流の川に離宮を造ったことを、次のように歌っている。

 やすみしし 我が大君(おほきみ) 神(かむ)ながら 神(かむ)さびせすと 吉野川 激(たぎ)つ河内(かふち)に 高殿(たかどの)を 高(たか)知(し)りまして 登り立ち 国見(くにみ)をせせば……(巻一の三八)

 「わが天皇が 神であらせられるままに 神らしく振る舞うべく 吉野川の激流の谷あいに 高殿を 高々とお建てになって 天皇自ら登り立ち 国見をなさると……」。そうすると、山の神も川の神も、今や天皇に従うと高らかに歌っている。

 柿本人麻呂が歌った持統天皇時代の離宮と隣接した地に、聖武(しょうむ)天皇時代の離宮があったことは、すでにわかっていたのだが、今回の発掘調査によって、その聖武天皇時代の離宮の中心となる建物が明らかになった。この建物に聖武天皇が入ったのかと思うと私は居ても立ってもいられなくなり、吉野の地に行った。

 聖武天皇の離宮なら、山部赤人、笠金村(かさのかなむら)といった歌人たちも見た建物ということだ。

 山部赤人は、その離宮について、こう歌っている。

 

 やすみしし わご大君 高知らす 吉野の宮は たたなづく 青垣(あをかき)隠(ごも)り 川並(かはなみ)の 清き河内そ……(巻六の九二三)

 「わが天皇が 高々とお造りになった 吉野の離宮は 折り重なる 青垣山に囲まれてあり 川の流れ 清き河内にある……」。青々とした垣根のような山々の中にあって、川の流れの清らかな地と歌っているのである。

 この表現をそのままとれば、川に隣接して離宮の中心的建物があったことになる。が、しかし。われわれ万葉学徒は、中心となる建物は、もっと山側にあるだろうと考えていたのだ。

 というのは、増水のたびに水に浸るような地に、天皇の御座所など建てるはずがないと思い込んでいたのである。だから、人麻呂や赤人の吉野離宮の表現は、誇張しているのだろうと。

 ところが、今回確認された建物は、まさしく川に面している。ならば、どう考えればよいのだろうか。この離宮は、まさしく吉野の川を愛(め)でる離宮であり、だからこそ、人麻呂も赤人も、まるで煮え滾(たぎ)る湯のような激流に接して離宮が建てられていることを賞賛しているのである。

 古代の天皇の大切な仕事の一つに、「国見」という儀礼があった。天皇が国のかたちをよく見て、国土を讃(ほ)めることで、地霊の心を慰める儀礼である。歴代の天皇が吉野に赴く理由は、吉野の川を讃めることにあったのだ。だから、吉野川を見る高殿は、川のま近に建てられたのだ。

 私は今回の発掘成果に驚き、自分の愚かさを恥ずかしく思った。赤人さん、あなたの歌ったとおりでした、と。

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 うえの・まこと 1960年、福岡県生まれ。奈良大学教授(万葉文化論)。著書に「万葉挽歌(ばんか)のこころ――夢と死の古代学」(角川学芸出版)など。オペラの脚本や小説も執筆。