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(1997年決勝 平安3―6智弁和歌山)

 4連投――。「未知の挑戦を最高峰の舞台でやらないといけない」。41年ぶりに全国選手権決勝に駒を進めた平安(現龍谷大平安、京都)のエース川口知哉は感じたことのない疲労に襲われながらも、最後まで投げきる覚悟を決めていた。

 1997年8月21日。第79回大会決勝は智弁和歌山との近畿対決になり、5万4千人のファンで客席は埋まった。大会屈指の左腕川口は1回戦から準決勝まで5試合663球を1人で投げ抜いてきた。3回戦から決勝までは4連投。「肩回りがきつかった。ただ、監督に『歯を見せるな。打たれようが、抑えようが無表情でやれ』って言われていたので、疲れを表に出さないようにはしていました」

 重くなった肩は本来の投球をさせてくれない。三回2死三塁から、打ち取ったと思われた二塁への打球が適時打になり、先取点を奪われた。四回にも追加点。「先制されることだけが嫌だった。結構、限界がきていた。気持ちが折れかけていた」。珍しく弱気になっていた。

 そんな左腕を仲間が援護する。五回、9番の宮田芳弘がスクイズを成功させて1点を返す。なお、2死二、三塁から奥井正憲が左前2点適時打を放ち、逆転した。川口は「もう1回スイッチが入るきっかけだった」と奮い立った。

 しかし、疲労は川口の想像を超えていた。五、六回は無失点で切り抜けたが、「やっぱり、苦しかった。打ち取れる球で粘られた。これはまずいぞ、という感覚はあった」。嫌な予感は的中する。七回に追いつかれ、八回には智弁和歌山の8番打者に三塁線を見事に抜かれて勝ち越しを許した。九回にもだめ押しの1点を失った。全国制覇まであと1勝のところで、力尽きた。「智弁和歌山は緻密(ちみつ)やった。いい打線やのに、バントで揺さぶってきた。疲れていることは分かっていたと思うし、つけこまれてるんやろうな、と」

 九回2死、川口は最後の力を振り絞った。この大会で投げる820球目は内角への直球。見逃し三振を奪った。「意地でしたね」。その裏、反撃かなわず、川口の甲子園は終わった。「やっと終わった。最後まで出し切ったという感覚だった」。平安のエースとして、完投には強いこだわりがあった。「代わったら、逃げているみたい。それが嫌だった。負けてても最後まで投げきるっていうことに自分の思いは詰まっていた」

 そんな思いは、仲間にも、原田英彦監督にも伝わっていた。実は決勝の途中、原田監督は2番手の奥原耕三を投げさせようかと、ベンチにいた奥原に「いこか」と声をかけたという。「そしたら、『ここまで川口できたんですから』って。なので、もう最後まで代えないと決めました」。原田監督は舞台裏を明かす。

 準優勝とはいえ、古豪復活を印象づけた大会だった。93年に就任した原田監督にとっては、初めての夏の甲子園。70年代後半から80年代にかけ、夏の甲子園に出場できないほど低迷した。「平安がここまで落ちたか」。ショックを受けたOBの原田監督が鍛え直した。「もう、川口みたいな選手は出てこないと思います。今後も。めちゃくちゃ練習しましたし、自分の弱いところを絶対に見せない子でした」と監督。

 エースで4番打者だった川口は、主将でもあった。1人3役。「自分の中で比重は4番打者が1、主将が1、ピッチャーが8みたいな感じ。妥協しなかったというのが、高校での財産ですね」

 卒業後、プロ野球オリックスにドラフト1位で入団したが、未勝利のまま2004年に戦力外通告を受けた。いまは女子プロ野球の指導者になり、野球の魅力を伝えている。

 「最終的に高校野球の指導をしてみたいという気持ちはあります。やっぱり気になりますし、甲子園をテレビで見ていると面白いですから」。優しい笑みを浮かべながら、川口はそう語った。(大西史恭)

     ◇

 かわぐち・ともや 1979年、京都府生まれ。97年秋のドラフトで、4球団から1位指名を受け、オリックスへ。引退後は指導者の道に進み、現在は女子プロ野球京都フローラ監督。

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