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 2015年4月1日、選抜大会決勝。敦賀気比(福井)は、東海大四(北海道)を3―1で破り、北陸勢初の甲子園優勝を遂げた。そのとき、星稜の山下智茂は毎日放送の解説席にいた。「現役だったらめちゃくちゃ悔しいと思うが、やめていたからね。同じ雪国が優勝して、うれしかったよ」

 頂点にあと一歩に迫った1995年の夏、山下は優勝したら監督を退くことを決めていた。決勝で帝京(東東京)に敗れて指揮を続行し、その後甲子園に3度出場した。2005年9月1日、60歳の区切りで38年間務めた星稜の監督を引退した。甲子園は春夏通算25回出場。ついに栄冠には届かなかった。

 引退の直前、1979年の夏の甲子園で延長18回の死闘を演じた箕島(和歌山)を率いた故・尾藤公に言われた言葉がある。

 「オレは箕島の尾藤で死ぬから、お前は星稜の山下で死ね」

 その後、関東や九州の高校から監督のオファーが殺到したがすべて断った。73歳になった今も毎日のジム通いで体を鍛え、名誉監督を務める星稜のほか、星稜中、金沢星稜大の指導にもあたる。日本高野連による若手指導者の講習会「甲子園塾」の塾長も務める。

 「甲子園の優勝は心残りだが、箕島との延長18回、松井の5敬遠、95年夏と記憶に残る負けが三つもある。それもいいのかな」

 三塁手の中川光雄は大会後、右肩の手術をして千葉大で野球を続けた。2002年から遊学館のコーチとなり、04年に部長に就任。星稜のライバルとして「裏切り者」と言われることもあるが、遊学館でも7度、甲子園の土を踏んだ。今、追い求めているのは、県内で負ける気がしなかったというあの夏のメンタル。「あの強さはまだうちの選手にはない」。時に山下の背中を思い出すという。

 「やっぱ、勝負事は勝たないと。勝っていればもっとチヤホヤされた」

 そう悔しがる不動の4番だった信藤浩伸は金沢市内で会社員をしている。長男は星稜中の野球部に所属。指導しているのはマネジャーだった田中辰治だ。金沢星稜大卒業後の01年に星稜中監督に就任し、4度、全国を制した。「山下野球を継承していく」とグラウンドで厳しい指導を続ける。

 そして、甲子園での雪辱を託された2年生エースの山本省吾は、再びあの舞台に戻ることはなかった。その秋の北信越大会準決勝で福井商に惜敗して選抜出場を逃すと、3年夏は肩を痛め、石川大会準決勝で金沢に敗れた。「7月で夏が終わる。衝撃だった」

 その後、慶大のAO入試に合格。六大学野球通算21勝を挙げ、00年にドラフト1位で近鉄に指名された。13年間で4球団でプレーし、通算40勝。5年前にユニホームを脱いだ。

 プロ最後の年、左ひじの手術を受けた。35歳にして、崖っぷちでのリハビリの日々。帝京と戦った決勝のマウンドを思い出したという。「北陸勢初の優勝を願う県民の思いとか、いろんなものを背負って投げた。あれより苦しい思いをしたことがない。17歳の自分ができたのだから、今、やれないわけがない」

 引退後はソフトバンクのスカウトとなり、昨年は東京地区の担当。帝京にも顔を出したという。「泣きながら聞いた帝京の校歌は、今聞いても心が動く」。今年から北信越、東海地方の担当となり、母校の後輩たちにも目を光らせる。

 あの夏の記憶を胸に、「やんちゃ坊主」たちはそれぞれの道を歩む。その姿を追うことも、今の山下の楽しみだ。散々手を焼かされた選手たちが、最後は監督の想像を越える活躍をしたあの夏の経験を、「甲子園塾」でも若手に伝えているという。「振り返れば、あの時のチーム作りが一番楽しかったな」=敬称略    ◇

 朝日新聞デジタルなどで投票を呼びかけた「甲子園ベストゲーム」で石川代表の5位に選ばれた1995年夏の決勝・星稜―帝京をテーマに球児らの歩みをたどりました。連載は塩谷耕吾が担当しました。今後、番外編を予定しています。

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