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(2006年決勝、早稲田実1―1駒大苫小牧)

 37年ぶりの決勝再試合で、好カードはさらに名勝負へと昇華した。

 2006年8月20日、そして21日。「世代最強」と言われた田中将大(現ヤンキース)を擁し、史上2校目の3連覇を狙った駒大苫小牧(南北海道)の勢いを跳ね返した早稲田実。相手のエースよりも4番との勝負に徹した斎藤佑樹の冷静さと大胆さが際立った。「本当に4番の本間篤史を抑えたことが勝った要因。本間に打たれていたら勢いづかれたと思うので」

 斎藤には、前年秋の明治神宮大会の対戦で苦い思い出があった。3―0の六回、先頭の本間篤に本塁打を浴びてから、さらに4失点して逆転負け。駒大苫小牧の香田誉士史(よしふみ)監督(当時)も「篤史の打撃に穴があるのは分かっていた。でも打つとチームが乗るんだよ」と絶対的なキーマンに挙げていた。

 甲子園では、最初の対戦に大きなヤマがあった。1試合目の一回2死二塁。初球は様子見の外角へのボール球のスライダー。2球目も凡打を誘うように同じ球を投げたが、わずかに浮いた。歓声と悲鳴が入り交じるなかで中堅後方を大飛球が襲った。しかし、ボールはフェンス手前で中堅手のグラブに収まった。斎藤がペースをつかむ前に失点していれば試合展開は変わっていた。

 2~6打席目は四球、一ゴロ、空振り三振、死球、送りバント。2四死球と明らかに神経を使っている。そして最後の7打席目は1―1の延長十五回2死、初球は観客がどよめく147キロの直球。慎重な投球から一転、思い切りの良い投球で名シーンになる。斎藤は「ここで終われない。振り絞るイメージ。最終回にそういう力が出ちゃうのは不思議ですよね」。高校卒業後も普段以上の力を引き出してくれた甲子園という舞台の特異性を語っていた右腕の全身全霊の球。最後はフォークで空振り三振に仕留め、早稲田実のこの試合の負けを無くした。

 斎藤は「九回から毎回毎回、最終回ですから気持ちが折れそうになるのを必死にこらえた。これほど最高の結果はないと思えた」。結局、再試合でも本間篤に安打を許していない。2試合、計11打席で8打数無安打、2四死球、1犠打で4番の役割をさせなかった。

 早大で東京六大学史上6人目の通算30勝300奪三振を記録し、日本ハムに入団した斎藤。プロの壁にもがく30歳が高校野球を振り返る言葉として選んだのは、「仲間」だった。「仲間を信じてプレーできました」

 1試合目の八回、三木悠也に先制ソロ本塁打を許し、「少し焦った」。ただ、「うちの打線ならすぐに取り返してくれると思った」とすぐに気持ちを立て直している。直後の攻撃で桧垣皓次朗(こうじろう)の二塁打などのあと後藤貴司の犠飛で同点に追いついた。延長十一回1死満塁の場面は、捕手の白川英聖(ひでまさ)を信じた。駒大苫小牧がスクイズを仕掛けてきたのが分かると、とっさにワンバウンドさせる投球で空振りさせた。この投球は白川が止めてくれると思わなければ投げられない。

 再試合では打線が斎藤を援護した。先制打は1試合目で無安打だった船橋悠が一回に放った。1点リードの六回は白川が田中の直球を狙い打って3点目。七回は後藤が適時打を放った。九回に2点を返されて4―3になっただけに、どれも欠かせない得点だ。2日間で24回を戦い抜き、早稲田実は88回目の夏で初めて深紅の大優勝旗を手にした。

 船橋は優勝した要因を三つ挙げた。3年生の主力のほとんどが次男だということ。「『チーム次男』。兄や姉がいて、基本的に負けず嫌い」。さらに下級生から応援される先輩でいること。そして一番の要因は「斎藤がいたことですね」。(坂名信行)

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 さいとう・ゆうき 群馬県太田市出身。88回大会(2006年)で、夏の甲子園1大会で過去2番目に多い78奪三振を記録。早大では100代主将。11年に日本ハムに入団し、通算成績は15勝24敗(7月2日現在)。

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