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 あこがれの甲子園をめざす球児の前には、けがや障害といった困難が立ちはだかる。ともに歩み、乗り越えようとする努力は球児たちを成長させ、見る者に勇気を与える。今回はそんな記憶をたどりたい。

沖縄水産元投手 大野倫さん(45)

 小学生の頃から甲子園、そしてプロをめざしていました。当時は沖縄水産が強く、甲子園でも8強(86年)、4強(88年)と力をつけていた。栽弘義監督の誘いもあって進学しました。

 練習はとにかく張り詰めていました。毎日が崖っぷち。70人が入部したのに、最初の1日で20人が来なくなりました。最後まで残ったのは23人。

 2年生の夏、沖縄勢として初めて甲子園の決勝に進み、準優勝。どうしても次の目標は優勝になるから、僕たちの代への期待が大きく、プレッシャーでした。

 一つ上は実力で準優勝でしたけど、僕らの代は、甲子園に行くか行かないかのレベルでした。実力で劣っているのに期待をかけられる。ギャップでしたね。

 3年の春に熊本であった招待試合でダブルヘッダーを両方とも完投しました。沖縄に戻って練習で投げたとき、右腕がぶっ飛ぶような激痛を感じました。

 しかし、もう追い込みの時期で離脱できない。誰にも言わず、「走り込みだ」といって投球練習もせず。練習試合でも打たれて、実力の半分も出ない。周りは調子が悪いだけと思っていたみたいですけど。だましだまし夏を迎えました。

 沖縄大会の準決勝の前に初めて栽監督に打ち明けました。甲子園に行ってからもあらゆる治療法を試したけど、効きませんでしたね。甲子園も1人で投げ続け、3回戦から決勝までは4連投しました。

 当時は箸も左手、頭も左で洗うほど右ひじが上がらない。甲子園でなかったらとても投げられない状態だったと思います。

 決勝で大阪桐蔭に敗れ、沖縄に帰って初めて病院に行くと右ひじ骨折、靱帯(じんたい)損傷、遊離軟骨でした。リハビリに1年かかり、甲子園の決勝が最後のマウンドになりました。

 でも、今、当時に戻れたとしても投げるでしょうね。決勝ではもう少し工夫して勝てるピッチングがしたいですけど。当時は体力的にも精神的にも何も残っていなかった。そこだけが悔しいです。マウンドに送った栽監督の判断に異論は全くありません。逆に代えられたら「ここまで投げさせておいて、なんで」と思ったかもしれません。

 今は中学生の少年野球の監督をしていますが、できるだけ休む時間を作って、けがには気をつけています。だけど、けがばかり気にすると鍛錬がなくなる。見極めが難しいですね。

 甲子園でも休養日ができました。投手として必要だと思います。球数や投球イニングも将来的には制限されると思います。(宮野拓也)

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 沖縄県うるま市出身。連投での骨折がきっかけで球児の障害予防対策が進んだ。外野手として九州共立大を経て、巨人へ。現在は九共大職員の傍ら、うるま東ボーイズの監督を務める。

福岡・戸畑商元投手 カズ山本さん(60)

 地元では小倉や小倉工が強かったけど、まだ歴史が浅い戸畑商(現在の市立北九州)に誘われました。設備は整っていなかった。グラウンドが学校から離れていて数キロ毎日走っていきました。照明もないから真っ暗な中、練習しました。

 「俺が学校を有名にしてやる」という気持ちでした。チームも強くなりました。九州大会に出て、初戦で春の選抜に出た学校と対戦しましたが、5打数5安打でチームも快勝。「なんが甲子園組か。新聞の1面はおれだ」と喜びました。

 でも、次の日の1面には知らない選手の名前が。「なんて読むん?」。後に広島カープで213勝する北別府学投手でした。完全試合をやってたんです。僕らも次の試合ではあっさり負けた。まだまだ上がいると思いました。この九州大会は今でもよく覚えています。プロの試合よりも。

 最後の夏は福岡では負ける気がしなかった。北部大会は僕ともう一人のエースが1点も取られなかった。勝ち上がってきた南部勢と北部勢の8校が戦う県大会の初戦は柳川商(現在の柳川)。練習試合では僕が完封していたけれど、決勝までのローテーションを組んだ結果、もう一人が登板。でも、あがったんだろうね。あれよあれよという間に点を取られて負けた。

 当時の仲間とは今も仲がいい。盆、暮れにゴールデンウィークと、年に3回も酒を飲みます。「この結束力があれば甲子園行けたのに」と笑い話で話します。負けたからよかったのかもしれません。「あのとき俺が打ったから」とか偉そうに言うこともないので。

 それでも、高校時代はつらいこともありました。僕は生まれつき難聴で耳が聞こえにくいんです。聞き取りが大事な英語は苦手で、野球の練習には行くけど授業には出ませんでした。なめてたんですね。そしたら点が取れず、1年生で留年。ショックでした。同級生が進学して後輩と同じクラス。それでも野球という目標があったから続けられました。このとき、耐えることを学びました。

 プロに入っても「打球音への反応が悪いから使えない」と言われました。でも、南海の穴吹義雄監督は「関係ない」と使ってくれました。「がむしゃらなところが、ホークスに刺激を与えてくれる」と。

 だから、今も子どもたちに野球を教えるのですが、僕も子どものいいところを見つけようと心がけています。100点とれなくても60点、70点でもいいんです。一生懸命やっていれば、落第点さえとらなければいいんです(笑)。(今村建二)

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 本名・山本和範。北九州市出身。近鉄を自由契約になったがテストで南海に入り、福岡移転後のダイエーでも活躍。北九州市立子どもの館館長。ホークスジュニアアカデミーで野球の指導も。