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 京都市最北端にある左京区久多(くた)。市内中心部から車で約1時間、800~900メートル級の山々に囲まれた小さな集落です。平安時代に都の寺の荘園として登場し、毎夏の「久多の花笠踊(おどり)」は室町時代の踊りの流れをくむなど、中世の面影を残すと言われます。では、中世の久多とは一体、どのような所だったのでしょうか。手がかりを求めて、京都市内で開かれている展覧会をのぞいてみました。

時の権力者ゆかりの荘園

 市歴史資料館(上京区)の特別展「久多荘(くたのしょう) 中世村落のすがた」。久多には、旧家の岡田家や東本家、志古淵(しこぶち)神社に伝えられた文書(もんじょ)計約2千点が残されています。特別展は、中世分の約330点を翻刻した「久多荘文書」刊行を記念しての開催。実物の文書約30点が展示されていますが、まとめて紹介されるのは初めて、とのことです。

 展覧会を企画した学芸員の野地秀俊さん(48)は、「山村で戦災などに巻き込まれにくかったという事情もありますが、その時代の久多の人たちが昔のものを大切にし、残そうと考えたからこそ、多くの文書が残ったのでしょう」。

 そもそも中世の「久多荘」とは、どの地域を指すのでしょうか。野地さんによると、久多は「三ケ村」と文書に記されていることが多く、今は大原の一部となっている大見(尾越を含む)と百井も合わせた地域と考えられるそうです。

 久多がいつ荘園として成立したか、正確には分かっていません。平安時代、藤原道長の法成寺(ほうじょうじ)と子の頼通が建てた平等院に材木を供給する「杣(そま)所」として表れます。鎌倉後期には足利氏の所領になり、室町時代に入るとその直轄地に。その後、足利将軍の腹心の僧を輩出した醍醐寺・三宝院門跡に寄進されるなど、時の権力者ゆかりの荘園だった時代が長く続きました。

「十人百姓」の流れ脈々

 文書からは、久多荘の社会構造が見えてきます。野地さんによると、「荘園領主―政所(預所〈あずかりどころ〉)―公文―十人百姓―百姓」と階層ができていました。公文(くもん)とは荘園に派遣された下官で、久多では岡田家が代々務めていたと伝えられています。

 特に興味深いのが、久多荘のリーダー(名主)と思われる「十人百姓」の存在です。鎌倉時代に出された、十人百姓が果たす役目などを示した文書(1202年)には、「年貢収納のため代官が久多荘へ来た時の食事は、三日以内なら百姓が負担し、それ以上滞在した分は年貢から捻出(領主負担)」「年末に準備する正月用の器は、公文に催促しなさい」などとあり、搾取されるだけではなかった庶民の姿もうかがえます。

 「十人百姓」とは、誰だったのでしょうか。室町時代の別の文書には、「岩葺(ぶき)」「糯(もち)田」など10人の名主の名がずらり。久多の住民によくある名字が目に付きます。

 中世庶民の息づかいを感じる展示は他にも。田畑・山林の売買に関する文書に記されたサイン「略押(りゃくおう)」の一覧です。筆の軸に墨を付け、はんこのように押した「筆印(ふでいん)」も。押したのは「谷さい女」「たいなかの虎女」とあり、どんな女性だったのだろうと思いをめぐらしました。

材木不足はウソじゃない!

 山林で支えられていた久多荘でしたが、材木は常に潤沢にあったわけではなさそうです。室町時代の1459(長禄3)年、「近年では山を全て切り崩してしまい、供出できる材木がない」とする誓約書が、公文と名主と百姓の連名で出されました。「うそなら、志古渕(しこぶち)明神の罰を受けてもよい」とまで書かれています。

 野地さんによると、実際、室町時代以降、京都近郊の山林は材木が不足していたという説があるそうです。「周辺地域との間で、勝手に相手側に入って木を切るトラブルが多発していましたが、材木不足も一因だったのかもしれません」。誓約書の100年ほど前には、久多荘内への進入を禁止した木製の制札(1365年)も出されています。「禁制」と書かれた筆跡は今も鮮明です。

 展覧会の見どころをもう一つ。中世の久多の主な出来事を記した「久多荘略年表」(11世紀~17世紀まで)も展示されています。久多の歴史に関する文献はかなり読んだと思いますが、年表は見た記憶がありません。聞くと、野地さんが展覧会に合わせて作成したとのこと。「点」でしかつかめなかった久多の歴史が、一つの流れとして把握できた気がしています。

危機にある「原風景」

 6月2日には、シンポジウム「久多、はるかなる中世から現代まで」が左京区役所であり、約80人の歴史ファンとともに参加しました。

 話題の一つとなったのは、室町~明治~現代の人口の推移です。室町時代(1459年)、「久多郷三ケ村」で145棟とされるのに対し、同じ地域と考えられる「久多・大見(尾越)・百井」の明治41(1908)年の戸数は計147戸計888人。登壇した野地さんの説明では、久多に限ってみると、明治41年に80戸521人だったのが、昨年は39戸79人(市統計月報)にまで減少したそうです。

 久多から参加したパネリストからは、古い日本の面影や自然の中での憩いを求め、農家民宿に多くの外国人個人客が訪れている一方、サルなどの獣害で生活基盤が脅かされている現実が報告されました。

 久多の歴史や人口の推移を知って感じたのは、確かに山深い所にあるけれど、中世の基準ではそう不便な場所ではなかったのかもしれないということです。歴史ある荘園で、京と若狭をつなぐ「鯖(さば)街道」沿い。人・物の行き交いがあり、関所もありました。それが今、集落の維持が難しくなってきています。大見・百井も含めた「久多荘」の歴史とこれからを「新村民」の一人として見つめていきたいと思います。

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 展覧会「久多荘 中世村落のすがた」は6月26日まで。志古淵神社の棟札など当時の祭具の展示もあり、16日午後2時からは展示解説があります。無料。月曜・祝休日は休館。

 会場の市歴史資料館(075・241・4312)は、京都御苑のすぐ東。京の街なかで、中世の久多の面影を探してみませんか。(福野聡子)