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 高校野球の「聖地」であり、阪神タイガースの本拠である甲子園。阪神で活躍し、1985年に監督として阪神を日本一に導いた野球評論家の吉田義男さん(84)は、京都府立山城高校(京都市北区)で甲子園に出場した。終戦から5年後の夏だった。

 ――どんな野球少年だったのですか。

 戦争中です。それどころではありません。野球をやるなんて想像もできませんでした。

 45年3月、中京区から母の故郷の本梅(ほんめ)村(現亀岡市)に疎開しました。小学6年で食べ盛りでしたが、食糧難でひもじい日々。家事や畑を手伝うだけで精いっぱいでした。

 戦後、自宅に戻ると、近所の子と三角ベースをするようになりました。ほかに遊びがない時代で、それが一番の楽しみでした。46年に中京区の京都二商に入学し、野球部に入りました。球拾いばかりでしたが、ボールに触れるだけでもうれしかった。学制改革で二商が廃校になり、48年に山城に移りました。

 ――高校球児としての思い出は。

 2年生の夏の甲子園出場です。第32回大会(50年)で、憧れのグラウンドに立ちました。開幕日に1回戦の北海(北海道)と戦いました。3―5で競り負けました。

 開会後で大観衆でしたし、なんて広いんだと感動しました。ただ、スタンドを覆っていた「鉄傘」は戦争で供出されたままで、太陽の光と白いシャツの観衆で視界が真っ白。ボールを見づらくて苦労しました。無我夢中で、あっという間に終わってしまいました。もっと長くいたかった。

 主将だった翌年の京都大会では、決勝で平安(現龍谷大平安)に0―4で敗れました。平安は全国制覇しました。甲子園はかないませんでした。

 ――どんな指導を受け、強くなったのですか。

 後(うしろ)栄治監督は大変な教育者でした。いつも言っていました。「人より少し多い努力を続けることが大事だ」と。人と同じことをしていても、甲子園に行けない。でも、人の倍やるのは無理。守備練習でも素振りでも、一歩上の努力をみんなで続ければ、チームとして大きな力になるということを教わりました。

 自信と不安は心のなかに同居しています。不安な気持ちを消し、自信だけにするためにも、いつもの練習をずっと続けるようにしていました。高校時代もプロ時代も。

 監督になってからは、前の試合で打ち込まれた投手を、翌日も起用。努力により不安を打ち消して、自信に変えてもらおうと心がけていました。

 ――いまの高校球児に何を伝えたいですか。

 平和な時代に野球ができるなんて幸せだし、すばらしいこと。甲子園という夢の舞台をめざすから、一歩上の努力を続けることができるはず。今を大切に、全力で頑張って。(聞き手・興津洋樹)

     ◇

 よしだ・よしお 中京区生まれ。山城高校では遊撃手。第32回(1950年)の夏の大会で甲子園に出場した。立命館大を中退し、53年に阪神入団。華麗な守りでスタンドをわかせ、「牛若丸」の愛称で親しまれた。69年の引退後、3度にわたり阪神監督に。89~95年にフランス代表監督を務め、「ムッシュ」と呼ばれるようになった。

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