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沖縄で23日、戦後73年の「慰霊の日」を迎えました。糸満市摩文仁の平和祈念公園で追悼式が開かれ、夏の高校野球地方大会も開幕。沖縄をめぐる問題について専門記者が解説しながら、動きや発言をタイムラインで追いました。

高齢化した元「ひめゆり学徒隊」、涙ながらの校歌斉唱(14:30)

 糸満市伊原の「ひめゆりの塔」。多くの同窓生を亡くした元女子学徒たちが、犠牲者の名が刻まれた碑に向かい、涙ながらに校歌を斉唱した。

 《友よいとしの わが友よ/玉とかがよう 乙姫の/心のひかり みがきえて/世にかがみとし かがやかん》

 沖縄師範学校女子部と、沖縄県立第一高等女学校から看護要員として地上戦にかり出された「ひめゆり学徒隊」は222人。そのうち123人が犠牲になり、50人余りはいつどこで亡くなったのか分かっていない。教師は18人が動員され、13人が命を落とした。学徒隊以外にも、91人の同窓生や教師が亡くなっている。

 生存者の中には戦争体験の語り部を続けてきた人もいるが、高齢化で日常的な活動は困難に。先月には、1989年のひめゆり平和祈念資料館開館当初から語り部を務めていた一人、上原当美子さんが亡くなった。

 合唱の後、慰霊祭の閉会あいさつに立ったひめゆりの生存者、本村つるさんは「同窓生と校歌と別れの曲を歌いますと、来し方の様々なことが思い出され、万感胸に迫るものがあります」。来年は資料館が開館30周年を迎えることにもふれて「また来年もお元気でお会いしたいと思います。ありがとうございます」と締めくくった。

(解説)秋の知事選、政権と翁長氏側の対決へ

 就任後、4回目となる平和宣言を読んだ翁長(おなが)雄志(たけし)知事。安倍晋三首相らを前に「辺野古に新基地を造らせないという私の決意は県民とともにある」と言い切った。11月18日投開票の次の知事選が近づく中、政権と翁長氏の対決ムードを改めて印象づけた式典となった。

 米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設反対を掲げる翁長氏の任期は今年12月まで。翁長氏は2期目への態度はまだ示していないが、対立する自民側は候補者選びを急いでいる。翁長氏ら移設反対派と、移設を進める政府与党側とが正面から対決するのは間違いない。

 報道機関の世論調査では、県民の辺野古移設への反対は今も根強い。一方で、2月にあった辺野古の地元・名護市の市長選では、翁長氏が支援した移設反対派の現職が、移設を事実上容認する新顔に敗北。工事が少しずつ進む中、翁長氏側は県内の首長選挙で支援候補が連敗するなど苦戦を強いられている。

 加えて翁長氏は膵(すい)がんを患い、公務を限定するなど、健康面の不安を抱える。知事選の構図が固まるのは、まだ先になりそうだ。(上遠野郷)

牛島司令官の孫・貞満さん「祖父は優しかった。戦争は人を変える」(13:00)

 東京都千代田区の弁護士会館で、「沖縄とともに~1945年6月23日を心に刻む」と題したシンポジウムがあった。

 45年6月末に沖縄本島南部で自決した、牛島満・陸軍第32軍(沖縄守備軍)司令官の孫、貞満さん(64)=東京都世田谷区=が講演。「意見の違いを戦争ではなく、人間の知恵で解決したい。祖父は家族にも沖縄で会った人にも優しかった。戦場では人が変わる。戦争は人を変える」と語った。

 同じ建物内では米軍機の事故に関する写真展も開催中。73年前に沖縄を占領した米軍は、地上戦のさなかから基地建設を進めた。それが、いまの在沖縄米軍基地の原型の一つ。

安倍首相、辺野古移設「最高裁判決に従って、進めていく」記者団に(12:58)

 安倍晋三首相は沖縄全戦没者追悼式後、記者団に対して「戦後73年たった今も沖縄県のみなさまに、大きな基地負担を負っていただいており、この状況は是認できるものではない」と語り、基地負担の軽減を進めていく考えを強調した。

 首相は「(沖縄県宜野湾市にある米軍)普天間基地の固定化は、絶対に避けなければならない」とも強調。同県名護市辺野古への移設に向けて「最高裁の判決に従って、進めていく」との考えも改めて示した。

 また、名護市の米軍キャンプ・シュワブ近くの農作業小屋で銃弾のようなものが見つかったことについては「人命にも関わりかねない、重大な問題だ」と指摘。22日に首相官邸で面会したハガティ駐日米大使に対して、事実関係の確認などで協力を求めたことを明らかにした。

(解説)政府と県の対立、かつてなく深まる 辺野古移設

 政府が推し進めている米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設計画。しかし翁長雄志知事は一貫して「反対」を訴えており、政府と県の対立はかつてないほど深まっている。

 発端は1995年の少女暴行事件だった。繰り返される米兵犯罪や、本土復帰後も変わらない基地負担に県民の不満が噴出。慌てた日米両政府は96年、市街地に囲まれた普天間飛行場を返還することに電撃合意した。

 ただし、代わりの飛行場を「県内」に造ることが返還の条件とされた。これが、20年以上続く混迷を生むことになる。

 計画を進めたい日本政府は、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブの沖合を候補とし、その後、沿岸部を埋め立てて滑走路2本をV字に配置する今の案で米国と合意した。

 だが、沖縄県民の反発は強かった。そんな県民感情を背景に、翁長氏は2014年の知事選で「移設計画をあらゆる手段で阻止する」と主張し初当選。国と争った裁判は16年に最高裁で敗れたものの、「奪われた土地(普天間)を返す代わりに別の土地(辺野古)を差し出せというのは理不尽だ」との訴えを変えていない。

 一方の安倍政権も、移設計画は「問題解決の唯一の解決策」との立場を変えない。今年8月中旬にも土砂投入を始めるなど、辺野古の埋め立てを本格化させる予定だ。(上遠野郷)

(解説)平和の詩の相良さん、曽祖母から「戦争は人を鬼に変える」

 今年の戦没者追悼式で、平和の詩を朗読したのは、浦添市立港川中3年の相良倫子(りんこ)さん(14)。沖縄県内の小・中・高校、特別支援学校から寄せられた971点の中から最優秀賞に選ばれた。

 タイトルは「生きる」。生きている喜びや沖縄の美しい風景と、平和学習で学んだ戦争の悲惨な情景を対比させた。「悩みながら書いた作品。私なりに、平和について定義したいと思った」という。

 原点になったのは、94歳になる曽祖母の存在だ。沖縄戦で友人を亡くし、収容所に入る過程で家族と離ればなれになったという曽祖母からは「戦争は人を鬼に変える。絶対にしてはいけない」と何度も言い聞かされてきたという。

 学校では生徒会副会長を務める相良さん。動物が好きで、将来の夢は「獣医」。大役が決まり、「亡くなられた方に対して、二度と戦争をしない平和な未来をつくることを誓うつもりで読みたい」と話していた。その言葉通り、まっすぐ前を見つめて詩を読み上げた。(上遠野郷)

安倍首相「基地負担減らすため、結果出す」(12:39)

 安倍晋三首相は沖縄全戦没者追悼式で「平和の礎に刻まれた全ての戦没者の無念を思うとき、胸の潰れる思いです」とあいさつした。沖縄に集中している米軍基地については「政府として、基地負担を減らすため、一つ一つ確実に結果を出していく決意であります」と強調。「私が先頭に立って、沖縄の振興を前に進めてまいります」と語った。

 式典では、正午に参加者が起立して約1分間黙禱(もくとう)。その後、首相が献花台に献花し、深く一礼した。

中3・相良さんが平和の詩「私は今を、生きていく」(12:25)

 浦添(うらそえ)市立港川中学校3年の相良(さがら)倫子(りんこ)さん(14)が壇上に立ち、自作した平和の詩「生きる」を朗読した。県内の小、中、高校、特別支援学校などから寄せられた971点の中から選ばれた作品だ。

 〈七十三年前、/私の愛する島が、死の島と化したあの日。/小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。/優しく響く三線(さんしん)は、爆撃の轟(とどろき)に消えた。/青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。/草の匂いは死臭で濁り(中略)みんな、生きていたのだ。/私と何も変わらない、/懸命に生きる命だったのだ。〉

 「生きる」という言葉にこだわり、平和学習で学んだ沖縄戦当時の情景を思い描いた。

 94歳になる曽祖母は、沖縄戦で友人を亡くし、収容所に向かう途中で家族と離ればなれになった。「戦争は人を鬼に変える。絶対にしてはいけない」と幼いころから何度も言い聞かされてきた。それが平和を考える原点になったという。

 〈鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。/命よ響け。生きゆく未来に。/私は今を、生きていく。〉

翁長知事、辺野古移設「全く容認できない」 参列者から拍手(12:21)

 翁長(おなが)雄志(たけし)知事が平和宣言。6月12日に行われた米朝首脳会談に触れ、「朝鮮半島の非核化への取り組みや、平和体制の構築について共同声明が発表されるなど、緊張緩和に向けた動きが始まっています」と述べた。

 日米両政府が進める米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設について、「平和を求める大きな流れの中にあっても、20年以上も前に合意した辺野古への移設が唯一の解決策と言えるのでしょうか」と疑問を投げかけた。その上で「アジアの緊張緩和の流れにも逆行していると言わざるを得ず、全く容認できるものではありません」と断言すると、参列者から大きな拍手が起こった。

翁長知事先頭に、献花始まる(12:05)

 追悼式の会場では、翁長(おなが)雄志(たけし)知事を先頭に参列者の献花が始まった。

 翁長知事は4月に膵臓(すいぞう)の腫瘍(しゅよう)を切除する手術を受け、その後、腫瘍はがんだったことを公表した。今も抗がん剤治療を続けている。この日は、かぶっていた黒い帽子を脱いでから献花台に向かった。

 献花中は「つしま丸児童合唱団」と「那覇少年少女合唱団」の小中学生ら43人の合唱の歌声が、ピアノの伴奏に合わせて響いた。

 「6月23日待たず/月桃の花/散りました/長い長い/煙たなびく/ふるさとの夏」

 曲の一つ「月桃(げっとう)」の一節だ。沖縄の学校で慰霊の日を迎えるこの時期、平和学習の観点からよく歌われている。シンガー・ソングライター海勢頭(うみせど)豊さんが作詞作曲し、沖縄戦の悲劇を描いた映画の主題歌にもなった。

球児が観客と黙とう 始球式務めた安仁屋さんも(12:00)

 第100回全国高校野球選手権記念沖縄大会は開会式に続き、コザしんきんスタジアム(沖縄市)で開幕試合があった。球陽と沖縄高専が対戦。4―2の球陽リードで五回が終わると正午を迎え、球児たちは試合を一時中断し観客と共に黙禱(もくとう)した。始球式を務めた沖縄(現・沖縄尚学)の投手で、広島カープで活躍した安仁屋宗八さんも、スタンドで黙禱した。

4500人の参列者が黙禱(12:00)

 正午の時報に合わせて、約4500人の参列者は静かに頭を下げたり、手を合わせたりして、沖縄戦の犠牲者に1分間の黙禱(もくとう)を捧げた。

市場でも黙とう(12:00)

 那覇市の「国際通り」近くにある第一牧志公設市場。観光客でにぎわう中、正午になると黙禱(もくとう)を促すアナウンスが流れ、店主らが手を止めて1分間黙禱した。土産物屋の女性(73)は沖縄戦の当時、生まれて3カ月。母から、大きな声で泣く自分をおぶって逃げ回ったと聞かされた。父は召集されて防衛隊に入り戦死。顔もわからない。「何年経っても言葉では表せない気持ちです。平和な世界が一番。子どもにも孫にも、逃げ回るようなことはさせたくない」

 黙禱が終わると、同市の金城邦男さん(75)、信子さん(72)夫妻が「ひめゆりの塔」など戦争にまつわる歌を4曲披露した。14年前から慰霊の日にここで歌っている。邦男さんの親戚の男性は教員としてひめゆり学徒隊を率い、生徒数人とともに摩文仁(まぶに)で手榴弾(しゅりゅうだん)を使って自決した。「生きたくても生きられない悲惨さを思い、胸が詰まる。平和をどう作っていけるか考えたい」。信子さんも「自分にできることをしていきたい」と話した。

遺族らの「平和祈願慰霊行進団」が入場(11:30)

 沖縄戦犠牲者の遺族らでつくる県遺族連合会の「平和祈願慰霊行進団」が、平和祈念公園の追悼式会場後方から6列になって入場した。車いすの人を押す人や親子連れの姿もある。

 行進団は午前9時ごろ、糸満市役所前を約800人で出発し、約8・5キロの道のりを2時間ほどかけて歩いた。行進は沖縄の本土復帰前の1962年に始まり、今年で57回目。出発地点を変えながらも毎年続いている。

安倍首相、平和祈念公園着 「NO安倍政権」掲げる人も(10:57)

 安倍晋三首相が沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園に入った。その後の午前11時ごろ、公園内の国立沖縄戦没者墓苑で、福井照・沖縄北方担当相や謝花喜一郎・沖縄県副知事らとともに献花した。

 公園の入り口では「NO安倍政権」「沖縄戦の慰霊とは基地を無くす事」と書かれた紙を掲げる人の姿もあった。

師範学校生徒を慰霊 「2度と戦争起こさないのが、同僚へのあり方」(10:30)

 平和祈念公園の海側の断崖に立つ沖縄師範健児之塔では、死者を悼む三線が奏でられた。14歳から19歳を中心に「師範鉄血勤皇隊」として戦場動員されて亡くなった沖縄師範学校男子部の生徒らを悼む慰霊祭。約200人が参列するなか、生徒らを引率し、45年6月21日に近くの海岸で死亡した野田貞雄校長の孫、謙二さん(61)も東京から駆けつけた。謙二さんは「亡くなった方々の魂の叫びが聞こえてきます。これからも慰霊祭を大切にしていきたい」とあいさつした。

 師範鉄血勤皇隊は386人中226人が死亡している。生存者の一人が、昨年6月に亡くなった大田昌秀元知事。参列する生存者は年々減り、昨年は6人。その後、一人亡くなった。当時15歳だった古堅実吉さん(88)は「2度と戦争を起こしてはいかんというのが、亡くなった同僚たちへの最大のあり方。73年経ちますが、誓いを新たにする日々です」と話した。

在沖米軍トップのニコルソン中将、米兵の名も刻む平和の礎に献花(10:30)

 沖縄に駐留する米軍トップのローレンス・ニコルソン中将らが平和祈念公園に姿を見せた。制服に制帽姿。沖縄戦などで犠牲になった米兵の名前が英字で刻まれた平和の礎(いしじ)の前に花輪を供えた。

 記者団に「ここはとても心を動かされる場所。今日のこの日はとても大切だ」などと話した。

安倍首相、黒の「かりゆし」姿 那覇空港着(10:12)

 安倍晋三首相が喪服の黒い「かりゆしウェア」姿で那覇空港に到着した。国会議員からは首相のほか、大島理森衆院議長と伊達忠一参院議長、福井照沖縄・北方担当相らが「沖縄全戦没者追悼式」に出席する。

選手宣誓「慰霊の日の沖縄から、平和への思い」北部農林・岸本主将(09:40)

 高校野球沖縄大会の開会式では、北部農林の岸本宗太主将(17)が選手宣誓。「ここ慰霊の日の沖縄の地から平和への思いを込めて」と力強く告げた。岸本主将は最近になって、一緒に暮らしている曽祖父が沖縄戦を体験し、家族と一緒に逃げ惑ったという話を新聞で知ったという。「気になっていたけどずっと聞けなかった」といい、宣誓にも「平和」の文字を盛り込んだ。「自分たちのやってきたことを全て出したい」という岸本主将の初戦は、7月1日。

高校野球沖縄大会が開幕 球場に「半旗」(09:00)

 第100回全国高校野球選手権記念沖縄大会が、南北北海道と並んで全国に先駆けて開幕した。晴天となったコザしんきんスタジアム(沖縄市)で、開会式が始まり、過去最多となる65校が入場行進。慰霊の日と開会式が重なったため球場には「半旗」が掲げられた。戦後、沖縄代表が甲子園に初出場してから60年の節目の大会となる。

(解説)慰霊の日、日本軍司令官が自決したとされる日

 沖縄戦などで亡くなった戦没者を追悼する6月23日の「慰霊の日」。沖縄県内の学校や役所は休みとなり、各地で慰霊祭が開かれる。正午には県内の消防署などでサイレンが鳴らされて黙禱(もくとう)するなど、沖縄中が慰霊ムードに包まれる。

 太平洋戦争末期の1945年3月下旬に始まった沖縄戦では、沖縄本島中南部や伊江島などで、軍民が入り乱れた激しい地上戦が行われた。北部や離島でも多くの人が飢えやマラリアで亡くなり、沖縄県によると、戦没者数は日米の将兵や民間人ら計約20万人にのぼる。うち沖縄出身者は、県民の4分の1にあたる計約12万2千人(住民9万4千人、軍人・軍属2万8千人)を占めた。

 戦後の61年、米国統治時代の立法機関である「琉球立法院」が、沖縄の日本軍司令官が糸満市摩文仁(まぶに)の司令部壕(ごう)で自決したとされる日を「慰霊の日」と定めた。

 ただ、自決日は6月22日との説もあるほか、それ以降も散発的な戦闘は続いた。米軍に「保護」された民間人も、劣悪な収容所に押し込められ、多くの命が失われたといわれる。沖縄で日本軍が正式に降伏文書に調印したのは9月7日だった。(上遠野郷)

(解説)平和の礎、24万人の名を刻む

 平和の礎(いしじ)は、沖縄戦の激戦地の一つ、糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園内に造られたモニュメントだ。黒いびょうぶ型の刻銘版118基が扇形に並び、24万1525人の名前が刻まれている。戦後50年の1995年に建てられた。

 一番の特徴は、沖縄出身者だけでなく、本土出身の日本兵や米英の軍人、朝鮮半島や台湾の出身者など、国籍や出身地に関係なく沖縄戦で亡くなった全ての戦没者名が刻まれていること。こうした慰霊碑は、世界中にほとんど例がないと言われる。

 沖縄戦の戦没者は約20万人とされる。礎の刻銘数がそれより多いのは、沖縄出身者については1931年の満州事変以降の戦没者も刻銘されているため。学童疎開船「対馬丸」をはじめとする戦時遭難船や、沖縄全域が攻撃された44年10月10日の「十・十空襲」、激戦地となったサイパンなどの南洋群島でも、沖縄出身者がたくさん亡くなっている。

 今年も新たに判明した58人が追加で刻銘された。激しい地上戦で戸籍などの記録が失われたうえ、戦後も米統治下に切り離されて長く混乱が続いたため、沖縄戦の被害の全体像は今もわかっていない。(上遠野郷)

孫に「戦争の怖さ、伝えなくちゃ」与那城哲雄さん(08:00)

 午前8時を過ぎ、セミの声が大きくなった。ずらりと並ぶ「平和の礎」の刻銘板の前で、花やお菓子を手向ける家族連れの姿が増えてきた。

 那覇市の与那城哲雄さん(79)は、孫の猪野屋望明(のあ)さん(14)と利桜(りお)さん(12)を連れて礎を訪れた。「これがいとこ。これがおじいちゃんのおばあちゃん」。刻まれた名前を指で一つずつなで、みんなで並んで手を合わせた。

 サイパン生まれ。一家5人で暮らしていた4歳の時に米軍が上陸し、父と弟、妹を失った。サイパンの収容所で終戦を迎え、母と2人で沖縄に戻ると、祖父母や伯父、伯母、いとこらはほぼ全滅。自身は戦争の記憶はほとんどないが、「刻銘板のあちこちにね、全部で14人(親族の)名前があるよ。すさまじいことです」。

 ここ5年ほど、孫を連れて礎を訪れている。「私らはやがてあの世に行く。戦争の怖さを、ちゃんと伝えなくちゃと思ってね」。隣で聞いていた利桜さんは言った。「大丈夫。これからも毎年ここに来るよ」

「戦後73年、軍の基地たくさん。平和な沖縄に」新垣好子さん(06:30)

 南城市の新垣好子さん(78)は、沖縄戦で亡くなった父の具志堅政睦さんの名が刻まれた礎の前にござを敷き、お盆の上には水、お茶、お菓子を並べ、たばこに火を付けて立てかけた。「いつも見守っていてください、と祈りました」

 終戦当時は5歳で、父の記憶はほとんどない。母も終戦の5年後に病気で亡くなった。「父の顔は写真でしかわからない。その上、母もいない。隣近所から家族だんらんの笑い声がする時や、学校の行事に友だちの親が来る日は、とにかく苦しかった。そんな子ども時分の思い出ばかりでね」

 いま「戦争は完全には終わっていない」と思っている。「戦後73年にもなって、沖縄には軍の基地がたくさんある。山のほうではまだ演習がある。孫たちが平和に暮らせる静かな沖縄にしてほしい」

兄が戦死「悲しさこみ上げる」池原ヨシ子さん(05:45)

 水平線にかかる雲の上に太陽が現れ始めたころ、沖縄市の池原ヨシ子さん(89)は、平和の礎(いしじ)に刻まれた兄2人の名前の前に正座した。名前の部分を何度もなで、紙袋から出した花と日本酒を供えて、静かに手を合わせた。「毎年のことなのに、何でここに来ると悲しさがこみ上げてくるのかねぇ」

 池原さんは7人きょうだいの末っ子。6番目の兄徳市さん(享年17)は那覇市の海軍司令部壕(ごう)近くで戦死し、長崎にいた4番目の兄亀助さん(享年27)は原爆で亡くなった。

 高校を卒業して結婚し、3人の子どもに恵まれた。だが、おなかに3人目の子がいるころ、夫が家を出た。20代後半から英語を学び、米軍嘉手納基地で43年間、タイピストとして働きながら子どもたちを育てたという。

 「寂しかったけど、とにかく働くしかなかった。私が健康でいられるのは兄たちのおかげ。戦争がない、平和な世界であってほしい」

陸上自衛官有志が慰霊(05:00)

 空が少し明らんできた午前5時すぎ、平和祈念公園(糸満市)の中で一番の高台に立つ「黎明(れいめい)之塔」に、制服姿の陸上自衛官約40人が現れた。一団は一言も発さずに花を手向けると、石碑に一斉に頭を下げた。

 先頭に立つのは陸自第15旅団(那覇市)の原田智総旅団長。集まったのはあくまで「有志」で、前身の第1混成団が沖縄に置かれた1973年以来続く「私的な参拝」という。

 黎明之塔は、沖縄戦を戦った日本陸軍の沖縄守備軍「第32軍」司令官の牛島満中将らの慰霊碑だ。戦いに殉じた指揮官である一方、司令部を首里から多くの住民がいた南部の摩文仁(まぶに)に撤退させて持久戦を続けたため、住民の犠牲を増やしたとも言われる。このため、牛島中将の碑を現役自衛官たちが制服姿で参拝することには異論もあり、インターネットなどで議論になることもある。

 ただ、2回目の参加という井筒太介3等陸佐は「黎明之塔だけ訪れるのではないのに、そこばかり注目されてしまう」と言う。実際、隊員たちは約40ヘクタールに及ぶ広大な平和祈念公園内を黙々と歩いて回り、一般戦没者を追悼する「しづたまの碑」や、殉職した県職員らを悼む「島守之塔」などにも花を手向けた。「あくまで戦没者たちを追悼したい。今日も静かに手を合わせました」

早朝から犠牲者悼む

 「慰霊の日」は、太平洋戦争末期に激烈な地上戦が展開され、組織的戦闘が終わったとされる日だ。

 沖縄県糸満市の平和祈念公園にある、沖縄戦の戦没者らの名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」には、早朝から、多くの人が訪れ、犠牲者を悼んだ。

 沖縄戦は1945年3月末に始まった。4月1日には米軍の本島への上陸が始まり、当時の県人口の4人に1人にあたる県民12万人以上が犠牲となった。日米の軍人を合わせると、死者は20万人に上るとされる。