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 荒川商(東京)でエースで4番だったみやぞんさん(33)の高校野球の原点は、母が苦労して用意してくれた野球道具だった。その思いを背に、3年間で得たものとは何か。

 小学校から野球を始めて、最初は外野手。ボールが怖くてへたくそだったなあ。試合も、たまに出られるくらい。上級生になって、試合には出られるようになったけど。

 地域のチームで野球を続けたけど、中学はソフトテニス部に。野球チームの先輩が中学の野球部にいて、そこでも一緒は嫌だったので。当時はバレーボールが好きで、ネットがあるのはどこだろうって、テニスだった。ネットつながりで。

 テニスで高校の推薦をもらったので、高校ではテニスをするつもりだった。うちは母しかいなくて、お金とかの関係でだめになっちゃった。その時に荒川商の野球部に入らないかという話が来た。

 中学の時、テニスコートに転がってきた野球のボールを投げ返したら、当時の荒川商の監督の目に留まった。その監督は有望な野球部員を探してたみたいで。

 野球部に入っても練習用ユニホームやスパイクを買うお金がなくて、母が指輪を質に入れて工面してくれた。野球で結果を出すと喜んでもらえた。だから、やめられないという思いがあった。親孝行のために当時は野球をやっていた、との思いが強かった。

 3年間練習をして、投手としての自信がついていた。強いチームとやっても三振を取れたし、打たれるイメージがほとんどなかった。ちゃんと投げた球で打たれたことはほとんどなかった。

 練習では、走る、足腰を鍛える、低めに投げることを徹底した。砂場に縦に穴を掘って、コーチに入ってもらう。穴から見えるミットにボールを投げる練習をした。それで低めに伸びのある球を投げられるようになった。

 ただ高3の夏の直前で腰を痛めて、最後はボロボロだった。なんでだろう、なんでこうなんだって思っていた。思い切りバットを振ると、その後は走れないくらい。今になって、そんな中でよくやったなあ。

 最後の夏は本当に必死だった。よく思い出すのは、後輩に「必ず勝つから」って何度も言っていたこと。有言実行という気持ちで。それまでの自分だったら、そうなるかわからないことは言わなかった。この時ばかりは、チームのメンバーと勝ちたかった。

 2回勝って、当たったのは国士舘。強いか弱いかもわからず、同じ高校生でできないことはないと思ってたけど、試合をしてすぐに「勝てないな」って。とにかく打球がライナーばかり。「びゅん」と伸びてた。

 試合に負けた時、心の底から相手に「勝ち進んで欲しい」って思った。本気で戦って負けた時、「がんばってね」とか相手チームによく言うじゃないですか。その気持ちがずっとわからなかったけど、3年生の最後の時に、その気持ちがようやくわかった。

 実は国士舘に敗れた時は、これが最後の試合かわかっていなかった。「次勝とうぜ」って言ったら、チームメートに「ない」って。これで終わりなんだ。本当にもう野球が終わりなんだな、練習もないんだなって気づいた。

 「やりたくないなぁ」と思って野球をやってきたのが、いざ終わりになると、寂しいんだなあと。高校を卒業して2年ぐらい、やる気が起こらなくて、ずっとだらだらしていた。それぐらい、本当に野球で燃え尽きた感じだった。

 芸能界で活躍できるようになったきっかけは、(芸能界の先輩の)伊集院光さんの野球チームに入ったこと。「売れそうな気がする」とラジオで言ってもらい、それから番組にも出させてもらうようになっていった。野球のつながりがあったからこそ今がある。高校野球で勝った負けたはありますが、野球は人生につながりをもたせてくれる。

 球児のみなさんにはとにかく一生懸命やって欲しい。そうやるからこそ、見ている人の心に火をともすことができる。負けたり、くじけたりすることもあるけれど、落ち込むことはない。高校野球はあくまで部活。その後の人生のほうが長いのだから。(構成・阿部健祐)

     ◇

 みやぞん 1985年、東京都足立区生まれ。本名は宮園大耕(みやぞのだいこう)。幼なじみのあらぽんさんと2009年にお笑いコンビ「ANZEN漫才」を結成。歌ネタを得意とし、ギターの弾き語りを担当する。出身地を題材にした「足立区の歌」などのネタがある。172センチ、70キロ。

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