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 赤れんが造りの煙突がそびえ立つ。ふもとの坑口から地下へ200メートル超。ヘッドランプが照らす暗がりの坑道で、一心に採掘を続ける男たちがいた。

 「きょうも、三池工業高校が勝ちました~!」

 1965年8月。福岡県大牟田市の三池炭鉱・宮浦坑の中、緊急用スピーカーから、明るいトーンの男性の声がこだました。

 歓声がわき上がり、拍手が響き渡った。第47回全国高校野球選手権大会。地元の三池工(福岡)は、後にプロ入りする2年生エースの上田卓三投手を擁し、快進撃を続けていた。

 「つるさん、明日から下がらんけんね。甲子園に行くけん、後は頼むぞ」

 坑内で働いていた津留崎末男さん(80)にそう言い残した先輩は、翌日からしばらく姿を見せなかった。帰って来た先輩は「俺が行ったけん、優勝したばい」と誇らしげだった。

 「明るいニュースに街は沸きました。何とか、活性化につなげたいという思いがあったんでしょうね」

 「総資本対総労働の対決」と呼ばれた三池争議。458人が亡くなった63年の三川坑炭じん爆発事故。石炭から石油へのエネルギー革命――。

 選手の活躍は、街の希望。「三池工業の子たちが頑張っているからね。今日は好きなだけ飲みな」。飲み屋のママに言われた津留崎さんは、みんなでうまい酒を飲み、酔いしれた。「おごってもらったという恩もあって、また次も飲みに出かけたものです」

 初出場で初優勝。原貢監督(故人)のもと、猛練習を重ねた努力が実を結んだ。紙吹雪が舞う優勝パレード。大牟田市内では、電柱に人がよじのぼり、大通りではビルや家の窓という窓から顔を出した。市役所の屋上にも人が押し寄せた。

 「どこからこんなに人が集まっとるんじゃろうか」。球場で応援団を務め、パレードを先導した浦川義弘さん(70)は話す。人口20万人の街に20万~30万人が詰めかけたとも言われる。

 優勝の2日後。炭鉱の1日あたりの出炭量は当時の新記録を刻んだ。閉山から21年。今も大牟田市で暮らす津留崎さんは言う。

 「三池工の球児たちの活躍が勇気をくれた。やればできるんだ、と」

 あのころの活気は今はなく、生徒数も減り続ける。街の人からは「優勝は大昔のこと」との声も聞かれる。そんな中、2年前に当時の選手らによるOB会ができた。現役部員の指導も始めている。会長を務めるのは、豪速球投手の木樽正明(後に現ロッテ)を擁する銚子商(千葉)との決勝で決勝打を放った捕手の穴見寛さん(70)だ。

 「とにかく、もう一回、みんなで甲子園へ」(角詠之)

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