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 「昭和21年のお返しですね」

 山形東(山形県)のマネジャー山本万葉さん(3年)は、5月中旬の栄養講習会の開始前、スポーツトレーナーの沼田尚(ひさし)さん(37)が米を差し入れてくれたと聞いて、そう話しかけた。会議室の机の上には茶色のずっしりした米袋。30キロの米がつまっていた。

 70年以上の時を越えた「函館」からの贈り物だ。

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 始まりは1946(昭和21)年のことだ。戦後初めて開かれた全国中等学校優勝野球大会(現・全国高校野球選手権大会)。代表19校の1校が旧制山形中学(現・山形東)だった。

 大会3日目、初戦の相手は旧制函館中学(現・函館中部)。結果は5―13で山形中が敗れた。

 敗戦直後で食糧難の時代。各校は自分たちが食べる米を持参していた。米どころらしく、山形中は、たくさんの米を持ち込んでいた。早々に帰郷が決まり、「自分たちは帰るから、函館中に米を持っていこうかとなった」と当時の主将、渡部盛雄さん(89)は振り返る。米を持って函館中の選手らを訪ねると、全員がずらりと並び、「ありがとうございました」と深々と頭を下げたという。

 この函館中部が、沼田さんの母校だ。山形大に進んだ沼田さんは、山大野球部のつてで山形東のトレーニング指導をするようになった。それまで、山形東と母校が対戦していたことも知らなかったという。「米を贈った時は、函館中部との話はすっかり抜けていて、山本さんに言われて、お返しになると気がついた」

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 山本さんは入部してすぐ、函館中との縁について聞いていた。

 1893(明治26)年創部、県内最古の高校野球部である山形東では、新入部員はまず部の歴史を学ぶ。

 戦時中、いつか後輩たちが野球を再開できるよう、選手らが敷地内の土蔵に野球道具を隠したこと。チームカラーのえんじ色は、黎明(れいめい)期に野球を教わった早稲田大に由来していること。1936(昭和11)年、県内校で初めて甲子園の土を踏んだこと。安達海渡主将(3年)は「今までの歴史も背負って練習している」と話す。

 「函館中からの米」は1日に2升ずつ炊いておにぎりにした。練習後、1人二つずつ。きつい練習の後は「食べきれない」と弱音が出ることもあるが、選手たちはみんな、この米の意味を知っている。

 沼田さんの提案で、函館中部は来年、72年前の再戦をしようと計画中という。当時の対戦相手とのやり取りが受け継がれていることを知り、渡部さんは「おもしろいなぁ」と喜ぶ。

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 「山形東高校」と書かれた野球部のリュックを背負って通学中、山本さんは知らない人に声をかけられることがある。

 「俺も野球部だったんだ」

 年かさの男性にそう言われ、「びっくりするけど、応援されてるんだなと思う」。同じ年ごろ、同じ場所で、同じものに夢中になった人たちがいる。「おじいちゃんくらい年が離れていても、同じものが好きってすごいことですよね」

 山形東野球部は部員がやや減少傾向で、昨夏は初戦で敗れた。それでも、「甲子園より長い歴史は、やっぱり誇り」と山本さんは笑顔を見せる。大人になって、「山形東高校」のリュックを背負った高校生を見かけたら、きっとうれしくなると思う。

 「そしたら、話しかけちゃうかもしれないですね、私も野球部だったんだよって」

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