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 1988年夏、甲子園に出場した宮崎南(宮崎県)。当時の監督、宮国則成(のりしげ)さんが昨年、77歳で亡くなった。宮国さんが、宮崎南の佐々木未応監督(45)に託した言葉がある。「ツーランスクイズをもう一度」だ。

 宮国さんは73年に国語教諭として宮崎南に赴任し、78年、野球部監督に就任した。当時、夏の宮崎大会では初戦で敗退することが多く、2回戦突破はわずか2回。私立高校と違って予算は少なく、縫い糸がほどけた硬球は部員が練習後に補修していた。

 選手にとっては「怖い監督」だった。「卒業後も会えば無意識に背筋を伸ばすほどでした」と88年の主将、深江義和さん(47)は振り返る。口癖は「(練習の)2時間だけ緊張しろ」。エラーでもしようものならバットを投げ捨てて帰ってしまい、しばらく練習に来ることはなかった。練習中に休憩はなく、グラウンドの水たまりの水を飲む部員もいたという。

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 そんな緊迫感の中、宮国さんが追い求めたのがツーランスクイズだった。

 スクイズを成功させ、相手の一塁送球間に二塁走者も本塁を突き、2点を奪う戦術。小柄で長打力がないチームが小技と機動力で活路を見いだす策として何度も練習した。

 「失敗すれば監督から怒号が飛んだ」と深江さん。一塁側と三塁側に白線を引き、その範囲内に15人が背番号順にバントをする練習だ。三塁走者と二塁走者の2人が生還できないとやり直させられた。

 猛特訓の成果が現れたのは87年秋の九州大会県予選。宮崎日大戦の七回、鮮やかなツーランスクイズを複数回決め、コールド勝ちした。

 翌88年夏の大会は全員がバントと走塁に自信を持って臨み、決勝まで駆け上がった。都城との試合では見事にスクイズを決めて先制し、8―1で甲子園行きの切符をつかみとった。

 4番打者としてこの試合で本塁打を放った深江さんは「調子は関係ない。バントの場面では必ずサインが出た」。本塁打の次の打席でも送りバントを命じられるほど徹底していた。

 宮国さんは試合後のインタビューで「夢のよう。生徒、学校関係者、父母の会、すべてに支えてもらい、優勝できた」と目に涙を浮かべた。

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 あれから30年――。宮崎南は春も含めて甲子園の土を踏んでいない。昨夏は準々決勝で涙をのんだ。宮国さんが病気で亡くなったのは直後の10月だった。

 妻郁さん(75)は「進学校だから『ガリ勉』と馬鹿にされた生徒の話をしていた。厳しい指導はきっと子どもたちに誇りを持って欲しかったんでしょうね」。

 6月下旬、宮崎南のグラウンドでは「コツ」「コツ」と、バント練習の打球音が響いていた。父が宮国さんの教え子だったという松尾隼汰選手(3年)は「小技に足を絡めた攻勢で優勝を勝ち取る」と意気込む。

 「場面が来たらツーランスクイズを積極的に狙っていく」。佐々木監督は、宮国さんが数年前、「甲子園でやりたかった」と口にしたツーランスクイズのことがずっと心に引っかかっていた。自身も1年生の打撃投手として甲子園に帯同したが、そのサインが出されることはなかった。

 宮崎南の校門近くにある甲子園出場の記念碑の下には、88年当時の選手が思い出の品を納めたタイムカプセルが埋められている。次の甲子園出場が決まった年に掘り起こす約束だ。

 「88年は昭和最後の夏で、今年は平成最後の夏。開けるにはふさわしい」と佐々木監督。伝統の機動力を使った野球で、夏に挑む。(高橋健人)

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