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 1988年の第70回大会で佐賀商(佐賀)、常総学院(茨城)、宇都宮学園(栃木)、宇部商(山口)を次々と破る快進撃で4強入りを果たした浦和市立(現・市浦和)。甲子園出場が転機となり、多くのメンバーがその後も「野球人生」を歩むことになった。

マスターズ出場を目標

 エースの星野豊さん(47)は甲子園の後、3番右翼手の阿久津和彦さん(47)と高校選抜でブラジル遠征に参加した。津久見(大分)のエース川崎憲次郎さん(元ヤクルトなど)らの豪速球を見て、監督に「僕、球拾いでいいです」と言って笑われた。

 プロは目指していなかったが、硬式野球は続けたいと首都大学リーグ一部だった明治学院大に入学した。背番号は21。「甲子園のエース」に期待は大きく、自ら「もっと速球を投げなければ」という重圧も背負い、球のキレも磨いた。1年秋から登板し、先発、中継ぎ、抑えをこなし通算9勝を挙げた。

 その後、「応援してもらった方々に少しでも恩返ししたい」と浦和市役所(現さいたま市役所)に入庁。社会福祉課や岩槻区コミュニティ課などを経て、今春から広報課課長補佐兼報道係長を務める。甲子園のスタンドを魅了した「ニコニコ笑顔」は変わらず、顔を覚えてくれている市民も多い。

 「仲間がいる限り野球は続けられる」と、今も二つのチームに所属し、元球児たちが再び甲子園を目指す「マスターズ甲子園」出場を目標に、浦和市立OBチームにも参加する。昨年は浦和学院との埼玉予選決勝で規定の2回を抑え、初優勝に貢献した。会長を務める県高校野球45年会では、ライバルだった元球児たちと一緒に、埼玉大会の県営大宮球場で美化ボランティアに汗をかく。

進路一転 指導者の道へ

 左翼手で主将だった蒦手(そうて)克尚さん(48)は「蒦手ダッシュ」で甲子園の脚光を浴びた。四球をもらうと一塁まで4・3秒、攻守交代時はベンチから左翼まで8・9秒。ひたむきな姿がスタンドを沸かせた。

 実家の焼き鳥店を継ごうと、高校卒業後は調理師専門学校に進学するか、東京の飲食店で修行するつもりだった。しかし、甲子園出場で一転、高校野球の指導者になり、浦和市立のような「勝負を楽しめる」チームを作りたくなった。

 英語教諭を目指し文教大に進み、軟式野球部に入った。浦和市立を訪れては中村三四監督に指導法を学び、後輩と汗を流した。

 教諭になり、初めて監督になった草加南では試合中にサインは一切出さず、部員に判断させた。「部員が考え行動する。その方が伸び伸びと野球が楽しめる」

 自主性を重んじる指導は、草加東野球部監督になった今も変わらない。大宮西のエースだった兎澤剛教諭(29)、浦和市立の後輩で正捕手だった土橋駿教諭(28)と41人の部員で大舞台への飛躍を目指す。

 「野球がうまいわけでも、甲子園で勝てるとも思わなかった。でも懸命にプレーすれば可能性が引き出され、奇跡は起きることを経験した。チャンスは誰にでもあると、高校生に伝え続けたい」

当時のミット 今も保管

 捕手の黒沼一輝さん(47)は、星野豊さんを絶妙なリードで支え、甲子園4強入りに大きく貢献した。元々内野手だったが、中村三四監督の意向で2年の秋に捕手に転向。「難しくて絶対に無理」としか思えなかったが、監督に捕手のイロハを学び、負け試合から配球の極意を吸収し、短期間で急成長した。「僕は黒沼が構えるミットに投げるだけ」と、星野さんの信頼も厚かった。

 「もう一度戦えと言われても、二度となし得ないだろう」。今もそう思うほどの甲子園での活躍は、野球を続ける自信につながり進路の選択肢を広げた。

 青山学院大の準硬式野球部で「甲子園4強」の肩書はついて回ったが、プレッシャーを跳ね返すように1年からレギュラーを獲得。肩を壊して内野手に回った後も、高校時代に培った基本プレーの徹底と「のびのび野球」の精神で4年間打ち込むことができた。

 部の先輩の勧めもあり、そのまま同大職員に。職員でつくる軟式野球チームの練習は楽しく、今も捕手から外野手まで幅広いポジションをこなす。

 甲子園で使ったミットは、大切に保管する。星野さんの球を受けてボロボロにすり切れた捕球面には当時の記憶が詰まっている。「甲子園であれほど貴重な経験ができたのは捕手だったからこそ。監督の言う通り捕手になってよかった」

大学でも「基本を徹底」

 9番で遊撃手だった鬼塚信次さん(48)は甲子園初戦の佐賀商(佐賀)戦が忘れられない。二回表2死満塁で打席に。「投手が異様に大きく見える」ほど緊張し、初球の真ん中直球に手が出なかった。開き直った2球目。内角直球を捉え、三塁線を破る先制の適時打で勢いづいた浦和市立は計15安打の猛攻で初勝利を飾った。

 東京六大学リーグの明治大準硬式野球部へ。名門高出身選手もいる中、自身は「公立出身の一選手にすぎない」と考えていたが周囲の目は違った。「甲子園4強の名手・鬼塚」という重圧。押しつぶされそうになっては歯を食いしばり、堅守に磨きをかけて1年でレギュラーをつかみ、3年秋に主将になった。

 高校以外は、小学校から大学まで野球部主将だった。持ち味は人一倍強い責任感。だが、浦和市立主将だった蒦手(そうて)克尚さんについて「蒦手はどんな時も弱音を吐かず、誰かが落ち込んでいれば『頑張ろう』『次は打てよ』と励まし続けた。学ぶことが多かった」。鬼塚さんは「基本プレーの大切さ」を大学でも徹底し、主将としてリーグの上位に押し上げた。

 現在はテレビ埼玉の営業局次長。高校時代に対戦したかつての球児と仕事でつながり、同じ目標を共有することもある。「野球をしていなければ、そんな縁もなかったです」

「野球の面白さ・深さ教わった」

 監督だった中村三四さん(66)が「楽しむ野球」を徹底した背景に、定時制高野球部の指導経験がある。仕事と勉強の両立の中、部員らがいつも口にしたのは「もっと野球がしたい」。思いきり投げ、打ち、守ることを喜び、定時制高県代表として全国大会に3回出場するまでになった。

 その頃、進学校の都立高が甲子園に初出場し「限られた練習時間でも工夫すれば、強豪でなくとも夢はかなう」と勇気づけられた。その後異動した浦和市立で基本プレーを徹底指導し、甲子園4強入りを果たした。「生徒たちに野球の面白さや深さを教わった。ひたすらボールを追いかける姿は輝いていた」

 浦和市立で2回目の甲子園を目指したがかなわず、2013年に定年退職。今は春日部市の市民体育館長を務めるが、高校野球への思いはなお熱い。「浦和市立のように特段目立つ選手がいなくても、夢の舞台へ駆け上がるチャンスは必ずある」と球児たちにエールを送る。(森厚志)

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