戦争孤児12万人、どこへ 妻子にも口閉ざし生きてきた

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安田桂子
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 戦後しばらく、各地の駅や公園には寝泊まりする子どもたちの姿があった。空襲や戦闘、病気で親を亡くした孤児たち。国が終戦直後に行った全国調査では、その数は12万人。それ以降の調査は見当たらない。焼け跡に残された子どもたちは、その後をどう生きてきたのか。

 生後3カ月、5カ月、2歳、16歳……。京都市下京区の大善院に、8人の子どもたちの遺骨や遺髪が安置されている。住職の佐々木正祥(まさよし)さん(64)が20年ほど前、本堂の裏の物置で古い木箱に入っているのを見つけた。木札には「昭和23~28年死亡」と記され、「伏見寮」の墨字があった。

 京都駅にはかつて親を亡くした子どもたちがあふれ、「駅の子」と呼ばれていた。市内には戦後の一時期、戦争孤児を預かる施設があった。伏見寮もそのひとつ。佐々木さんの叔父は寮の元職員だった。

 2013年、佐々木さんは供養する会を始めた。かつて寮にいて、戦後70年を経て、体験を打ち明けてくれる人にも出会った。

 京都市左京区の小倉勇さん(86)は1年ほど伏見寮で暮らした。13歳だった1945年7月、福井・敦賀の空襲で母を亡くし、翌年2月、父が病死。食糧難の時代、身を寄せた伯母は冷たく、各地を転々とした。

 死んでいく子を何人も見た。8歳ぐらいの女の子。やせ細り、裸足を真っ赤に腫らして、大阪駅前で力尽きた。福井駅で出会ったひとつ年下の「かめちゃん」。盗みをしては、闇市でカレーや肉まんを分け合った。東京・品川駅近くで電車に飛び込んで自殺した。

 小倉さんは2年の放浪の末、京都駅で保護された。緑内障の適切な治療を受けられず、左目を失明した。「歯を食いしばっても泣いても、世間は冷たかった。地獄でした」。社会への不信感から、黙っていようと決めた。

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