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 甲子園にあと一歩届かずとも、三重県の高校野球ファンの記憶に刻まれた古豪がある。13日に開幕する第100回全国高校野球選手権記念三重大会を前に、「黒潮打線」の異名を取った木本(熊野市)、伊賀地域をリードした上野(伊賀市)の球児たちのドラマを振り返る。

浜で鍛えた「黒潮打線」熊野・木本高

 熊野市の獅子岩をバックに、七里御浜で実戦練習に励む選手たち。朝日新聞が1970年に撮影した木本の練習の一コマは鮮烈だ。

 監督だった九鬼克亮さん(72)は「雨が一度降ると3日間はグラウンドが使えなくなるから、浜辺での練習を始めた」と言う。選手だった赤阪俊一さん(67)は「フリー打撃もイレギュラーバウンド処理の練習もやった。浜辺を走り、知らず知らずのうちに足腰が鍛えられた」と振り返る。

 九鬼さんは木本高を卒業後、国鉄の機関助手として働きながら指導した。監督になって間もない67年、木本は三岐大会に出場。準決勝で岐阜短大付に敗れたが、夜遅くに熊野に帰ると、駅に大勢の人が出迎えてくれたのを覚えている。

 「黒潮打線」の異名は、九鬼さんの時代に定着した。「そんなにいい当たりをするわけじゃないのに、照れくさかった。ただ、詰まっても外野の頭を越すしぶとい打撃は貫いた」

 悔やまれるのは、68年の第50回記念大会で四日市工と戦った準々決勝だ。大雨の中でリードされたが、八回裏に2点を奪って5―6に迫った。だが、降雨コールドで九回裏が巡ってこなかった。

 2年後の第52回大会は6試合で1点も与えず、三岐大会決勝へ。だが、後に巨人入りする湯口敏彦選手がエースだった岐阜短大付に、0―2で涙をのんだ。

 九鬼さんは10年間監督を務め、松崎敏祐さん(70)が後任になった。「負けん気が強く、怖い物知らずのチームだった」。アイスホッケーのマスクを付けさせて至近距離でノックし、相手エースの性格まで調べるデータ野球も採り入れた。

 浜辺での練習は続いていた。「砂利でボールの糸が切れるので畳用の針で縫って補修した」と、大崎順敬さん(56)は思い返す。

 79年の第61回大会は準決勝まで進んだが、上野に延長十回、0―1で敗れた。3番に座った三鬼賢常さん(56)は「本命だった宇治山田商が準々決勝で負け、油断があった」と言う。

 80年代以降、木本は上位進出もあったが、甲子園は遠かった。ベスト8も2004年を最後に途絶える。

 それでも、木本OBの情熱は衰えない。13年のマスターズ甲子園、赤阪さんが監督、大崎さんが選手として「OB日本一」に輝いた。市内でスポーツ店を経営する赤阪さんは「あこがれた甲子園で、木本の名前を背負って本気の試合ができたのはうれしかった」。

 大崎さんらは、くまのスタジアムが完成した02年から全国の強豪を毎年、熊野市に呼び、木本など紀南地域の高校との試合を組んだ。熱意が実って初年度に横浜を呼ぶと、以降もOBの人脈を生かし、大阪桐蔭、智弁和歌山などが参加した。

 三鬼さんは岩手県に拠点を置くトヨタ自動車東日本野球部で監督を務め、7月の都市対抗野球に初出場を決めた。春のキャンプは熊野市で行っている。

 少子化にも負けず、木本は今も約40人の部員を抱える。今は冬場に浜辺を使い、ボール回しやロングティーなどをしている。向井李輝主将は「昔のOBは気持ちが強く、今よりもっと厳しい練習をしたと思う。今夏は8強以上を目指したい」。

 黒潮打線の熱き血潮は、今もたぎっている。(広部憲太郎

期待に乗せられ快進撃 伊賀・上野高

 「不言実行」

 伊賀市の上野高校第2グラウンドのバックネット裏に、黒御影石製の碑が横たわる。1979年夏の第61回大会で上野を三重大会準優勝に導いた富増良樹元監督(享年56)のため、野球部OBが富増さんの座右の銘を刻み、亡くなった2000年に建立した。

 OBの富増さんは、近鉄に勤めながら65年から25年間、後輩を指導した。「何でこんなに、と思うほど怒られたが、逆に『期待されている、自分たちは強い』と乗せられていった」と、準優勝当時の主将で機械製造販売会社長の石橋弘彰さん(56)は振り返る。

 座右の銘の通り、「口数が少なく、近寄りがたい厳しい人」というのが、当時の選手たちの富増さんへの印象だ。「だが、人間味があり、高校生から見た大人像として憧れられる人だった」と、二塁手だった北伊勢上野信用金庫常勤理事の武岡恒(ひさし)さん(56)。

 上野はプロ球団が偵察に来た左腕の速球投手、長谷川真爾(しんじ)さん(56)のワンマンチームと評された。前年の秋季大会、直前の春季大会は地区予選で敗れ、最悪の雰囲気で夏に突入した。「だが、大会に入ると打てないチームが打ち始めた。一番大事な時期にまとまるのが高校野球の面白いところ」と長谷川さん。

 1、2回戦をコールド勝ちし、3回戦で優勝候補の海星と対戦。強豪を3点に抑えると、1点差の九回裏に石橋さんの内野安打で追いつき、押し出し死球でサヨナラ勝ちし、勢いづいた。「自分たちが経験したこともない集中力が出た。監督も含めみんな泣いていた」と武岡さんは話す。

 翌日の準々決勝は、2年連続の甲子園出場を狙う宇治山田商に3―0と完勝。ピンチに捕手の石橋さんが強肩で走者を刺し、長谷川さんを援護した。

 立て続けに優勝候補を破ったことで、球場のスタンドは伊賀勢の初優勝を期待する市民であふれた。

 準決勝の木本戦は投手戦に。前年の夏は1―2で負けた相手だ。スコアボードに「0」が並ぶ十回裏、サヨナラスクイズで上野が競り勝った。富増さんは初球スクイズが好きだった。

 決勝の相可戦は大会6試合目、海星戦から4日連続の登板で、さすがに剛腕の長谷川さんにも疲れが出た。「失策でも四球でもなく適時打で先制され、ガクッときた」と長谷川さん。

 甲子園を目前に敗れても、選手たちの多くに涙はなかった。鉄道を乗り継いで伊賀に戻ると駅前は生徒や市民であふれ、にわかパレードが始まった。武岡さんは「地元に応援されているとひしひしと感じた。それが今の自分の原点になっている」と話す。

 長谷川さんは大学では野球を選ばず、東京での会社勤めの後、藤堂藩の侍大将一族の菩提(ぼだい)寺・山渓寺住職を継いだ。

 OBは中学野球の指導など、それぞれに伊賀の高校野球の底上げに力を注ぐ。

 その一人、当時三塁コーチャーを務めた平野昌洋さん(57)は高校野球に関わりたくて教諭になり、今は母校の野球部の副部長として生徒を指導する。

 全都道府県から代表校が出るようになって以降、伊賀地域からは上野と、翌62回大会で名張桔梗丘、68回大会で名張が決勝に進んだが、甲子園には届いていない。平野さんは「いまだに達成されていないが、いつかは伊賀の子たちが甲子園へ行ってほしい」と話す。(中田和宏)

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