日本講談協会会長で講談師の神田紅さん(66)が、桂歌丸さんについて、追悼の思いを語った。

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 落語芸術協会にも所属している関係で何度かご一緒させていただきました。落語を愛し、最後まで高座への執念を見せていました。芸の虫で芸の鬼。「噺家(はなしか)は高座で死ねたら本懐」と心底思っていらしたのでは。

 15年くらい前でしたか、仕事でタイのバンコクに一緒に行きました。「お弟子さんにお土産は買わないんですか」と尋ねると、「自分で稼いで買ってこそいいんだ」と言うんです。弟子との関係をきちんと保つというのか、歌丸さんならではのダンディズムを感じました。とてもオシャレな人でブランドものもたくさん持っていました。それでいて、それが嫌みにならないんです。男性の色気を感じさせる人でした。

各界から悼む声続々

 上方落語協会副会長の桂米団治さんは「誰に対しても物腰が柔らかく、本当に優しい師匠でいらっしゃいました。でも、高座に対する厳しさは人一倍で……。常にお客のことを一番に考えて来られた師匠のお姿、大いに学ばせていただきました。心よりご冥福をお祈り申し上げます」との談話を出した。

 今年5月、上方落語協会の会長に就任した笑福亭仁智さんは「東西交流を盛んにするためお願いにあがろうと思っていた矢先のことで、ただただ驚いております。東京の落語を今日の隆盛に導かれた大功労者で、お元気に復帰されると思っておりましたので、残念でなりません。心よりご冥福をお祈り申し上げます」とコメントした。

 桂米丸さん(93)は、先立った弟子の歌丸さんを悼んだ。「ショックです。最近暑い日が続いていたので心配していたのですが。私より先に逝ってしまうなんて、胸がいっぱいです。最後に電話で話した時も、元気そうな声だったんですけどね。私が11歳上ですが、もともとは兄弟弟子で、それなのに『師匠、師匠』と仕えてくれて、盆、暮れにはあいさつを欠かしませんでした。芸は新作だけでなく古典もしっかりとやって、器用な人でしたね」

 漫談家の春日三球さん(84)も桂歌丸さんの気さくな人柄を振り返った。

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 「地下鉄漫才」が売れたころ、地方興行でよくご一緒しました。列車に乗っていると、「名人が作った竿(さお)はいいんだ」「自分だけの川がほしい」などと、ご自身の趣味でもある釣りの話をしてくるんです。

 足腰が弱る前は本当に熱心だったんでしょう。夏は大物狙いで渓流へ行ったそうです。山奥にいることに気づき、歌丸さん1人だけだったこともあったようですよ。周りに猿がいっぱいいて、取り囲むように歌丸さんをじっと見ていたんだそうです。「怖かったなあ。あのときは……」と笑顔で話していたことが忘れられません。

 昨年10月に放送された「BS笑点ドラマスペシャル 桂歌丸」で歌丸さん役を演じた歌舞伎俳優の尾上松也さんは、芸道に歩む後輩としてコメントを出した。

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 昨年ドラマで歌丸師匠を演じさせて頂き芸に対する情熱と姿勢に感服致しました。

 どんな困難があっても落語に対する愛と情熱を忘れず貫いてこられた歌丸師匠には芸道を志す者として沢山(たくさん)のことを学ばせて頂きました。

 またその温かいお人柄に触れ私を含め多くの方々が桂歌丸、椎名巌さんに魅了された事と思います。

 まだまだ高座におあがりになりたかった事と思いますしまだまだ歌丸師匠の落語を見たかったと思うと残念でなりません。

 しかしながら歌丸師匠が教えて下さった志を大切に私もこれからまた精進したいと思います。

 最後まで落語家として生き抜いた生き様にはさすがとしか言い様がありません。

 本当にお疲れ様でした。

 そして本当に有難(ありがと)うございました。

 心より御冥福をお祈り致します。

 落語協会の柳亭市馬さん(56)は「いつどこでお目にかかっても、歌丸師匠は穏やかに優しく接してくださいました。そして落語界の行く末を案じておられました。最近の師匠の高座からは『この姿をよく見ておけよ』という我々後輩への強いメッセージを感じました。落語に対峙(たいじ)するなみなみならぬ思いを身をもって教えてくださった歌丸師匠、長い間本当にありがとうございました。心からご冥福をお祈り申し上げます」とのコメントを出した。

 歌舞伎俳優の市川海老蔵さん(40)は自身のブログを更新し、「桂歌丸師匠」のタイトルで追悼、「師匠の訃報(ふほう)を耳にして、とても哀(かな)しいです。私が子供の頃から歌舞伎座にて歌舞伎を御覧(ごらん)くださっていたお姿が思い出されます。心より御冥福をお祈り致します」とつづった。

 桂歌丸さんにちなんで芸名を付けたラッパーの宇多丸さんが2日夕、パーソナリティーを務めるTBSラジオ「アフター6ジャンクション」で、歌丸さんとの思い出を語り、その死を悼んだ。

 「宇多丸」は、宇多田ヒカルさんと歌丸さんにちなむ。ただ、元々は「歌丸」だったという。「90年代に仲間内で、スキンヘッドの感じと、物申す感じが歌丸さんだねと言われ、と名乗り出す前から歌さんと呼ばれていたんです」と宇多丸さん。

 その後、テレビ、ラジオに出るようになり、番組欄に「歌丸」の表記で出ては勘違いされるし、「確実に怒られる」と今の漢字に変えたのだという。

 歌丸さんの弟子の歌蔵さんと知り合ったこともあり、2011年12月、番組の企画を兼ねて歌丸さんの楽屋を訪ね、芸名の使用についてあいさつした。歌丸さんは「どうぞお名乗りください。宣伝になるから」と快諾してくれたという。

 宇多丸さんは「その後、不義理のまま来ちゃったんでちょっと申し訳ないんですが」とためらいつつ、「師匠、お疲れさまでした。その節は本当にありがとうございました。おかげさまで元気にこんな番組をやらせていただいています」と話した。

 「笑点」構成陣の元チーフで放送作家の遠藤佳三さん(81)が桂歌丸さんについて思い出を語った。

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 「笑点」が始まったのは1966(昭和41)年5月。僕が携わったのはその1年8カ月後でした。ですので、50年近いつきあいがあります。

 口跡の良さ、言葉遣いの美しさと本当に秀才でしたね。日曜夕方の放送ながらもずっと高視聴率を得てきた背景には、歌丸さんの存在が大きかったのではないでしょうか。歌丸さんが番組に出ることで番組が引き締まったのです。

 『自分の落語は爆笑をとる落語ではない』と若いときに気づき、人情噺(ばなし)に転換したのも判断が良かった。「笑点」での軽妙なイメージも世間的にはあるかもしれませんが、人情噺にじっくり打ち込み、話芸を研ぎ澄ませる、厳しい一面も併せ持っていました。とにかく真面目一筋、芸一筋という人でした。

 テレビ局としては引退してほしくなかったのでしょう。「(笑点を)やめないでくれ」というコールが起きました。芸人として、とても幸せな生涯だったと思います。(編集委員・小泉信一