【動画】杷木地区赤谷川流域の復興工事=堀英治撮影
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 福岡、大分両県を襲った九州北部豪雨は5日、発生から1年を迎えた。大きな被害が出た福岡県朝倉市や東峰村で追悼式が催されるなど、各地で犠牲者への祈りが捧げられ、被災者らが復興への決意を誓った。

 5人が犠牲になった朝倉市杷木松末(ますえ)の石詰集落では午前8時半過ぎ、遺族や住民ら約60人が被災現場近くに集まり、手を合わせた。

 現在、自宅が無事だった世帯を含めて全住民が集落を離れている。市は近く、被災者生活再建支援法に基づく「長期避難世帯」として、この集落を含めた一部地域を認定するよう求める方針だ。認められれば、復旧工事などが完了して安全が確認できるまで居住できなくなる。小嶋喜治区長(62)は「復旧は何もかもこれから。少しでも早く工事が終わって長期避難が解除されるよう協力していきたい」と話した。

 市主催の追悼式は午前10時半、同市杷木久喜宮のサンライズ杷木で始まった。遺族をはじめ約400人が参列。全員で黙禱(もくとう)を捧げた。妻と娘、孫の3人を亡くした渕上洋さん(66)と、両親を失った井上洋一さん(58)が遺族代表として追悼の言葉を述べた。林裕二市長は式辞で「被災者の方々の思い、願いに寄り添いながら(中略)、復興への取り組みを一層加速してまいります」と語った。

 今回の豪雨では災害関連死1人を含む40人が亡くなり、2人が行方不明となっている。記録的な大雨で大量の土砂と流木が集落などに流れ込み、家屋の全半壊は両県で計1432棟。河川などの本格的な復旧工事はこれからで、仮設住宅や「みなし仮設」などで避難生活を強いられている被災者は、福岡県で423世帯1032人、大分県で43世帯94人に及ぶ。

渕上さんの追悼の言葉

 ちょうど1年前の7月5日、九州北部豪雨災害で、妻麗子と、娘由香理、孫友哉、そして娘のおなかに1カ月あまりで誕生する予定だった第2子の孫の4人を亡くしました。

 私は、その日、雨が激しかったので、早めの帰宅をと思い、帰る途中でしたが、西原の橋で足を止められました。

 河川からは水があふれ、大量の流木が重なり、さらに電柱が倒壊し、とても通れる状態ではありませんでした。

 妻たちに連絡をしようにも電話が通じません。仕方なく、その夜は、仕事場の梨団地で一夜を過ごしました。

 翌朝通れるということを聞きましたので、水やおにぎり、パン、ラーメン。30キロちょっとあったと思います。車で行ったら10分ぐらいのところ、歩いて4キロの道のりを山を越え、谷を通り、3時間弱くらいかけて帰りました。

 自宅につくと、家は流木と土砂で押しつぶされていました。

 私は「うそやろ」。信じられない思いで、言葉もなく、その場に立ち尽くしていました。

 ハッと思い、我に返り、「麗子、由香理」と叫びました。しかし、何も返事はありません。

 母もいたはずと、家の中をのぞくけど、流木がいっぱいで、私の力ではどうすることもできず、この中にいないことを願うばかりでした。

 翌朝、長崎と佐世保のレスキュー隊により、3人の遺体が発見されました。

 孫を娘が抱くように、その2人を妻が抱くように、かばうようにして、3人一緒に見つかったということでした。孫は無傷で、娘はおでこに少し傷があるくらい、妻は顔中傷だらけで、その時の様子が見て分かりました。

 私は、妻に「よくがんばってくれたね」「娘も孫もきれいにしとるよ」とお礼を言って、涙を流しました。

 娘には、子どものときから、「お前は、何があっても、お父さんが守ってやる」と言っていたのに、それができなかった。それが残念でなりません。

 夜の8時30分ごろと聞きます。大きな地鳴りと、ドーンという音。

 もし、自分がその場に帰っていたなら、避難させることができたのではないかと、自分自身に問いかけます。

 人前では泣かないと心に決めていますが、このことを考えると涙が止まりません。

 今は仕事に集中するように、何も考えないように心がけていますが、ふと思い出すと涙がとまりません。

 昨年の9月ごろに、甘木で標語を見つけました。

 「失ったものも大きい、でも負けてはいられない」という標語です。

 「失ったものが大きすぎるったい」。車の中で自分で口に出しています。でも、この標語に、家族を亡くして初めて心を打たれました。標語がこんなに心に突き刺さるものだとは、初めて知りました。

 今くじけたら、娘から「お父さん、何しよっとね。由香理の分まで、頑張って」としかられそうです。

 幸いにして、母がいます。頑張らなきゃという気持ちになります。それと娘の主人がいます。一人娘の旦那です。私の大事な息子です。

 最後になりましたが、様ざまなご支援を頂いた方々に感謝申し上げます。

 また、今回犠牲になられた方々のご冥福をお祈りし、遺族代表の言葉とさせていただきます。(徳山徹)

井上洋一さんの追悼の言葉

 あの日から、1年。

 突然、両親がいなくなったこと。

 そして、生まれ育った家もなくなり、故郷の風景が変わってしまいました。今も現実として受け止めることが、できません。

 災害は、ひとごとではない。とても残酷な形で思い知らされました。

 今も雨が降るたびに、両親のことを思い浮かべます。

 あの日の午後、雨がひどくなってきたので、両親に電話をしました。

 私が「避難した方がいい」というと、母は「わかった」とこたえました。

 そして父は、私の声を聞くと「洋一すまんな。ありがとう。ありがとう」と、言いました。

 普段は、あまりそんなこと、言う父ではなかったのに。

 まさか、その言葉が、最後になるとは夢にも思っていませんでした。

 なぜ、あのとき、父は「ありがとう……」と2回言ったのか、今も私自身、答えを見つけることができません。

 90近い父、そして母が、あの雨が降りしきる中、どういう思いでいたのだろうか。そのことを考えると、胸が痛くなります。もっと早く何かできなかったのか、今も本当に悔いが残ります。

 父と母が、家の縁側で、2人並んで座っていたのを、近所の人が見かけたのが最後になりました。

 父は有明海で、母は自宅近くで、見つかりました。

 場所は違いますが、見つかった日は2人とも、流された3日後の7月8日、これも何か2人の絆のようなものを感じます。

 父は、シュロやカヤを伝統の技術で編んで、獅子舞の蓑(みの)などを作る名人でした。

 材料のシュロやカヤを、一緒にとりに行ったこともあります。

 福岡県内で初めて、選定保存技術保持者として認定されていたことは、父が亡くなって初めて知りました。

 改めて、父の偉大さを知ったのと同時に、その技術が蜷城(ひなしろ)地区の美奈宜(みなぎ)神社の皆様や、遠く離れた陸前高田市の方々にも受け継がれていることを、大変ありがたく思います。

 最後に、たくさんの支援をしてくださった皆様、本当にありがとうございます。

 みなさんのひたむきな姿に、感動しました。

 また、お亡くなりになった、たくさんの方々のご冥福をお祈りするとともに、行方不明の方々が一日も早く、ご家族のもとに帰ってこられることをお祈りし、追悼の言葉とさせていただきます。

九州北部豪雨の被害状況

(福岡、大分両県)

死者(災害関連死を含む)  40人

行方不明者         2人

住宅の全壊       336棟

住宅の半壊      1096棟

仮設住宅などの入居者 1126人