六甲山系を襲った豪雨が土石流を引き起こし、約700人が死亡・行方不明になった阪神大水害から80年。大水害後、砂防ダムの建設や災害を防ぐ法整備は進んだが、豪雨災害が多発するいま、改めて教訓を伝える取り組みが進んでいる。

「山津波…煮えくり返る湯のよう」

 兵庫県芦屋市の民家の庭で6月29日、「永保」と刻まれた橋の親柱が掘り出された。約500メートル北の芦屋川に架かっていた「永保橋」の一部で、大水害の際に流されてきたのを住人が保存していた。

 1938年7月3日夕から5日昼にかけ、六甲山系に計約460ミリの雨が降り、土石流が発生。土砂や木を含む濁流がふもとの市街地に流れ込んだ。国土交通省によると、神戸市を中心に阪神間の広い範囲に被害が出て、死者・行方不明者695人、被害家屋は11万9895戸に上った。

 当時、住吉村(現・神戸市東灘区)に住んでいた谷崎潤一郎は、「細雪」に大水害の様子を描いている。

 「六甲の山奥から溢(あふ)れ出した山津波なので、真っ白な波頭を立てた怒濤(どとう)が飛沫(ひまつ)を上げながら後から後から押し寄せ来つつあって、あたかも全体が沸々(ふつふつ)と煮えくり返る湯のように見える」

【動画】1938年の関西大水害による阪神一帯の惨状(朝日世界ニュースから)=朝日新聞フォトアーカイブ

荒廃進み、はげ山に…人災の側面

 六甲山系の木は江戸時代から薪や家の材料として伐採され、明治時代半ばには広範囲がはげ山になっていた。1900年代初期の植林で一時緑地が回復したものの、20年代に入るとドライブウェーの建設など開発が続き、荒廃が進んだ。

 一方、神戸市の人口は開港以来急増し、山の中腹まで市街地が広がった。さらに、土地を確保するため川を暗渠(あんきょ)にしたところもあり、岩や木で詰まった水路の上を濁水が流れ、被害が拡大した。大水害は人災の側面が強かった。

 大水害は国に衝撃を与えた。当時の内務省は2カ月後、六甲砂防事務所(現・近畿地方整備局六甲砂防事務所)を設置。国直轄で砂防ダムの建設を始めた。

 神戸市はその後、61年6月と…

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