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 長野県松本市で1994年に猛毒のサリンを散布した松本サリン事件などを起こしたオウム真理教の元代表、松本智津夫死刑囚(63)らの死刑が6日、執行された。事件発生から24年。犠牲者の遺族や当時の捜査員らは、刑の執行と向き合った。

 松本サリン事件で次男の小林豊さん(当時23)を奪われた母の房枝さん(76)=静岡県掛川市=は、午前9時ごろ、死刑の執行を知人からの電話で知った。「やっと死刑になった……」。ただ、この24年間を振り返っても、「気持ちは何も変わらない」という。

 松本サリン事件は、1994年6月27日深夜、松本市北深志1丁目の住宅街で発生した。オウム真理教の信徒が猛毒ガスのサリンを散布し、8人が死亡、約600人が重軽症を負った。

 確定判決などによると、事件は、松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚が指示し、刺殺された村井秀夫元幹部を含む7人が実行役となった。

 犯行の背景には、教団松本支部の土地取得にからむ訴訟で、教団側に不利な仮処分命令が長野地裁松本支部から下されたことがあり、これに不満を抱いた松本死刑囚の指示で、同支部の裁判官官舎が狙われ、付近の住宅街でサリンを散布した。これには、サリンの威力を試す目的もあった。

 また、事件をめぐっては、第1通報者の河野義行さん(68)を犯人視した警察とマスコミ報道が批判を受けた。河野さんの妻の澄子さんはサリンの被害を受け、2008年に亡くなった。

 松本サリン事件では、首謀者の松本死刑囚のほか、サリンの製造に関与した土谷正実(53)、実行役としてサリンを散布した中川智正(55)、新実智光(54)、遠藤誠一(58)の各死刑囚に死刑が執行された。

 小林房枝さんは、死刑執行前、取材に「死刑が執行されても、息子が帰ってくるわけではない。ボタン一つで刑が終わるというのも悔しい。本当は、もっと苦しんで苦しんで、執行されてほしい」と話していた。

 豊さんは仕事で松本市に長期出張中、サリンの被害にあった。「明るくて素直で楽しくて、自慢の子だった」。魚が好きで、よく釣りに行っていた。幼稚園のころ、飼っていた金魚が死んでしまってひどく悲しむような、優しさがあったという。

 事件を知らせる電話が鳴ったのは事件発生翌日の1994年6月28日午前4時ごろ。「嫌ですね、その時のことは。でも忘れないです、絶対に」

 事件から24年が経ち、豊さんが生きた年月をすでに超えた。「24年と思うと長かったなあと思うけど、自分の中では……。短かったという思いと、ない交ぜ」

 死刑執行は、豊さんに報告するつもりだ。「人生を奪った人たち。豊も待っていたでしょう」

 だが、事件が終わることはない。

 「豊はもういない。私たち家族は生きていく限り、豊のことを背負っていく。だから、処刑されても何があっても、区切りがつくということはない」。刑が執行された今も、その思いに変わりはない。(田中奏子、鶴信吾)

元県警捜査員 遺族を思い涙

 松本サリン事件の当時、長野県警捜査1課に属し、サリンの生成方法や入手先などの捜査に携わった上原敬さん(64)は6日朝、テレビのニュースで死刑執行を知った。「ようやくか」という思いとともに、当時を思い出したという。

 「雲をつかむような捜査だった」と振り返る。薬品会社や大学の教授を回り、文献を読み込んだ。サリンの成分が分かるにつれ、入手経路が見えてくる。成分を購入したダミー会社を突き止め、徐々にオウムに近づいていった。

 今でも、サリンの生成式を覚えている。「それだけは忘れられない」という。警視庁との合同捜査本部が立った日、逮捕状を取った日……。捜査の段階を資料を見なくても言える。

 「あれだけの大事件をなんとか解決できた」という警察官としての思いの一方で、当時小学生だった我が子が被害者と同年代まで成長し、自身も現役を退いた今、身に染みて思う。「被害者やご遺族にとっては、区切りという一言では言い切れないだろう。一生懸命育てて、将来を楽しみにしていた子の命が一瞬で奪われたのだから」と涙を浮かべた。(田中奏子)

■「執行は…

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