[PR]

 100回の歴史を重ねてきた全国高校野球選手権大会。今年の長崎大会の開会式には、73年前に原爆を経験した元球児5人が参加した。当時、ユニホームが破れたまま試合に熱中したり、グラウンドを耕して芋畑にしたり――。爆心地にほど近い長崎県営野球場に集まった彼らは、どんな野球少年だったのか。

 開会式は雨のため、屋根のあるスタンドで行われた。開会宣言がされ、ずらりと横に並んだ57校の選手が一斉に立ち上がる。

 長崎東高OBの田川博康さん(84)=長崎市=はその姿に圧倒された。「みんなそろって立派なユニホーム。壮観やな」。ぴかぴかの一張羅が、あの当時のユニホームを思い出させた。

 1949年、2年生で野球部に入り、捕手をしていた田川さん。ライバル長崎西高との試合中、突然、後輩が駆け寄ってきた。

 「先輩、僕が代わります」。田川さんが「なんでだ」と怒ると、後輩は「お尻がやぶけています」。本塁のクロスプレーで滑り込んできた相手のスパイクがひっかかったのだろう。ズボンの下はふんどし。「お尻が丸見えなのに気づかず、試合をしていた」。当時は物資が乏しく、木綿のような破れやすい布のユニホームだった。後輩がズボンを交換してくれ、試合に出続けることができた。

     ◇

 5人の中で最年長の中村豊さん(89)=長崎県長与町=は選手たちの姿を見て「うらやましい」と目を細めた。「野球ができるだけで幸せだった。こんな開会式、夢のまた夢」

 野球が出来る喜びを、人一倍知っている。42年に旧制海星中に入学し、野球部に入ったが、2年生になると戦況が悪化。食糧難のため、学校の指示でグラウンドを耕し、芋畑にした。

 動員先の造船所近くで巨大なきのこ雲を見た。海軍飛行予科練習生に合格し、佐世保の海兵団に入ることが決まっていたが、まもなく終戦。戦地に赴くことはなかった。

 戦後、野球がしたくて卒業を1年延ばした。道具がなかなか手に入らないなか、野球の練習に入ってきた進駐米軍が道具をくれた。日本のものより一回り太いバットを思いっきり振ったことが忘れられない。

     ◇

 中村さんの後輩にあたる山田一美さん(84)=長崎市=は、開会式で「栄冠は君に輝く」が流れると、思わず口ずさんだ。48年夏、旧制中学から新制高校に学制がかわったのを契機に、朝日新聞社が大会歌として募集した曲だ。

 山田さんは49年、海星高の野球部に入った。中村さんら先輩たちが耕した芋畑を一部平らにして、三塁部分でノックするなど再び練習に使い始めた。当時、戦争の焦土から立ち上がっている真っ最中。曲が出来た時期と重なり、「希望を感じさせる歌」と懐かしむ。

 とはいえ、物資はまだまだ豊かではなかった。ボールはすぐに糸がほどけ「投げると流れ星みたいになった」といい、授業中にちくちくと縫い合わせた。野球雑誌の付録にグラブの型紙があり、布を使ってグラブを作ったことも。それほど、みんな野球がしたかった。「子どもの遊びは、それしかなかったから」

 長崎県高野連の「白球五十年史」によると、48年、原爆で焦土となった長崎の青少年に野球を通じて希望を持ってもらおうと、第2回九州大会を誘致。ただ、適当な球場がなく、長崎市内の高校で一番広い長崎商業高校のグラウンドを使った。戦時中に米海軍の潜水艦が侵入するのを防ぐために港に張り巡らせていた金網を、三菱造船所からもらい、バックネットに仕立てたという。スタンドは「長崎くんち」の桟敷を借りた。

     ◇

 「立派なスタジアムだなぁ」。長崎西高OBの田栗静行さん(78)=東京都八王子市=はこの日、浦上天主堂近くの自宅跡を訪れてから県営野球場に来た。

 5歳の時、原爆で父と妹を亡くした。孤独を感じていた頃、厳しい練習をともに乗り越え、長い時間一緒にいた仲間たちは家族のような存在になった。当時の自分に会えたら、「よう頑張ったね」と言いたい。県営野球場の前身、大橋球場も思い出深い場所だ。

 田栗さんはこの日、自身が選手だった時と同じデザインのユニホームでスタンドに立った。後輩の緊張した表情に「試合に臨む覚悟を感じた」という田栗さん。そんな後輩たちに大切なお願いがある。「今回100回目を迎えられたように、200回目に続く平和な世の中をつくってほしい」(田部愛)

こんなニュースも